映画感想:世紀末の世界に必要なのはもうちょっと広い範囲を救う宗教だってずっと言ってる。イモータン・ジョーはそこだけ改めたら良い。いや全然よくないんですけど。そのほかのすべてがまったく一切合切よくないんですけど。「マッドマックス:フュリオサ」の感想です。鑑賞日は2024/06/03です。#映画感想 続きを読むもう忘れてしまわないうちにこれだけ言わせてもらって良いですか。いや乳首ィ!!!!!!!!!!!!!なんで??????????前作も相当「ええ………」って思いながら本編中で誰も触れないから俺も触れて良いのかわかんないな、みたいな要素だったあの世紀末常時露出乳首チェーン、なんでそこをブラッシュアップしたんですか????あの乳首のシーンのせいで「乳首千切られたから最終ディメンタスの負け」みたいな意味合いが付与されうる可能性を誰も考えなかったんですか?????あとあのシーンに特に意味がないなら「本当になんでだよ」しか言えなくなるんですが本当になんでなんですか?????????????まあギリギリあのシーンがあることによってイモータン勢の異常さとディメンタスのちょっと頭の悪い(ただしそれは「たとえ電極が乳首に繋がっており極端に強い力がかかったときに万が一が発生するが、ないであろう」という人間の普遍的な善性や倫理によりかかったあの世界ではもうとうに失われ、特にあの砦では一切が存在しない価値観のもと生まれている発想であるからして、して、だからなんで乳首なんだよノイズがすごい)ところを描写することができ…で……、でき…………いや俺があらゆるものごとをできる限りポジティブかつ有意であったことを見出そうとする人間だとしてもだからなんでなんだよ、ずっと混乱してるよ。なんでなんだよ。わかんないよ世紀末が。わかりたくないな。ともあれフュリオサ(子供時代)が脚ほっっっっっそ!!!!脚はっっっっっっっっっっや!!!!!!!!になり、ご母堂の勇ましさと育成方針(敵対存在に一矢報いたのを見て「よくやった」って褒めるの生き残るために戦闘に特化した人間の言い分で好き)を大喜びし、「ご母堂!!!!!!!」って大声を出し、そこからずっと人間をモノ扱いする世界観の主観たちに最低最悪の気持ちになり、フュリオサ……生きろ…………って続編(前作)を知っているのに祈っていました。ディメンタスくんは頑張って世紀末になんとか人間の善性を残したまま支配を試みようとして、全然そんなことできるわけないので(支配を蔓延させるにはどこかの時点で人間性を完全に手放し決別する必要があるため)あんまりにも過去の自分と過去の世界、人間たちの相互扶助でなりたっていた社会のことを引きずりすぎたんだなあと思うし、その上でなんとか「なろう」としていたので本当は殺す予定のなかった変装した仲間たちを「マジに殺せ!」って急に翻して部下に反感を抱かれたりする。オクトボスさんはたぶんディメンタスくんの中に残り彼自身が固執している人間性の部分を信じてついてきていたのだと思うけれど、だんだんと静かに少しずつ狂っていく、人間性を失っていくディメンタスくんに見切りをつけて翻したんだろうなあ。自分の部下をディメンタスくんに貸す(うわ〜〜人間をモノとしてやりとりしている〜〜〜最低限の世紀末の嫌さ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!にはなりますが)し、たぶんいままでディメンタスくんはちゃんと返してくれていたからこそなのでしょうけど、あのガスタウン襲撃でおそらくボタンのかけ違え、歯車の噛み合わなさが決定的になってしまったんだろうな。そんでディメンタスくんとイモータン・ジョーに共通しているのはもっと広い範囲を救う可能性がある宗教を広めたらよかったのにね、と言う話。けっきょく環境自体が人間を守らない場合(単に人間が環境に適応できずにいるだけであって環境側からしたらそれこそ自然淘汰なので自然に淘汰されてもろて……の話なのだが)、人間同士で縋って生き延びあっていく場合、共通認識と共通的はあったほうが絶対に一致団結できるというのは数々の歴史が証明しておるので。イモータン・ジョーはウォーボーイズにはそういう詭弁を使っていたけれど人間たちには完全に食料や水を占めるという物理的な支配しか行っていないし(おそらくはね。ウォーボーイズに与えられていた、盲目的に手足となって消費を受け入れるだけの魅力に足るだけの幻想を少なくとも与えていたのであればああはならないと思うので)、ディメンタスくんもなんかこう……がんばってあの暴力が罷り通る世界に適応して成り上がろうとしてm熊のぬいぐるみとそれに付随する家族とのなにかしらを完全に捨てきれなかったから自分が徐々に歪んでいってしまうしかなくて、そういうときにものを言うのって「なんとなく人外の力ですべてを救ってくれそうな神」の存在が一番テキメンに効くのだけど、イモータン・ジョーは自身がその位置だと思っていたしディメンタスくんはおそらくあそこに至るまでの過程でおそらく神を否定しているので全然ダメです、あ〜あ、というのは人間性最悪独裁やらせらた一番ダメなタイプの人間俺から申し上げておきます。たぶんそういう宗教の世界観も容赦のない環境変化で「神なんかいねえよ!!!!!」みたいになっていって崩壊したんだろうなというのは容易に想像つくんだけど、ウォーボーイズくんがなまじっかみんな信仰を得ているのでやりようはあったんじゃないかな。最悪だな本当に。今作を踏まえて前作のニュークスくんを見ると「本当に人の心を取り戻したのおめでとう」になりました。ニュークスくんはヴァルハラにはいけないけど(そんなもんないので)、もし死後の裁きとかいうものがあるのだとしたらほんのちょっとだけ良い方に行くと思うよ。なんというか全編を通して制作側にその意図があったかはわからないけれど、生まれの次に大事なのは育ち、まるでなにもわからない赤子の状態からなにを吹き込まれて育ったか、なにを見て育ったか、善性が先にあってそこからのちずっとずっと悪逆非道を見てきた場合にどうなるのか、人間は他人から施されたものしか他者へ施すことができないという単純な話をやっていたし、怒りや憎しみという感情を保持していくのは本当に大変だけれど怒りの感情は快感と近いところにある仕組みをしているから人間の寿命が半分になりフュリオサだってもしかしたら前作のもうちょっと後で死ぬのかもしれない、それどころか日々の生活の中ですぐ隣に死がある状態で、生きる理由として選ぶにはあまりにも大変だけれど一度定めてしまえばあまりにも力強い動力源となりうるんだよな。それこそ作中で崇められているV8エンジンのように。フュリオサはそれを原動力として、しかして進むべきと決めた道がきちんと与えられた、そして急に奪われることで無理やり与えられたものごとを総合して反面教師とするだけの素質があったからこそ、ジョーの額に己の額を合わせたのだ。戦友の、絆……!!!!ってめちゃくちゃブチ上がってた。のでディメンタスくんの最後は本当にそれなんですか!?あとそこから収穫された作物、できれば収穫までの過程を一切知らないまま人生を終えた方がよい分類になるのであの果物食べたのかな………あのひとたち……ってちょっと個人的に心配になりました。たぶんフュリオサは語らないと思うのだけど。途中で急にディスカバリーチャンネルとかで見たことある巨大制作物過程早送りシーンが出てきたのちょっと笑っちゃったな。あそこだけプロジェクトX的なドキュメンタリーの空気があった。出てくるメカの全部が「そうはならんやろ」を「なるんだよ」で薙ぎ倒していく造形していて本当に𝑯𝑨𝑷𝑷𝑰𝑵𝑬𝑺𝑺...でした。俺はあの映画にありとあらゆるメカの造形のとんでもなさと盛大な爆発を求めているので。全体的に前作同様、ストーリーは一本道で単純で明確で言葉だけが少なくてだからこそ人間性の多大な欠如を物語っていて、暴力と悪意は溢れていて、誰も彼もみんな奪えるとみたら全力でそうしにいくような果ての果ての果てに緑の地はもうなくて、でも確かにずっとあの世界でも大事なものを失わずにいた人間たちがごく少数はいたからフュリオサは砂漠をまっすぐ突っ切って、まっすぐ帰ってきたんだな。それで言ったら生体メカニックさんもマジで生命についてなんの倫理も持ってなくて本当に「メカニック」(技術者であるということ)で最悪の最悪でしたね。味方であれば一見生命を優先しはするから(メカニックだからね、材料は丁寧に扱うだろうね、有益な可能性があるうちは)判断を一瞬迷うんだけど言動は完全にイモータン・ジョー側のそれだからね。つまりイモータン・ジョーは人を見る目がある。本当に最悪である。途中、ディメンタスくんがガスタウンで煙を上げて囮とし、砦へ向かうときの行軍で道になにか撒いていたのを「……?油…か……?水分か?」ってなったんですけど「砂埃を上げないためだ」と気づくと同時に「陸上自衛隊総合火力演習の前段と後段のあいだに施設科の散水車がやるやつじゃん!!!」と気づいて脳内がめちゃくちゃ気持ち良くなったので細かすぎて誰にも共感されないポイントが最高でした。畳む いいね ありがとうございます! 2024.6.4(Tue) 21:30:23 つらつら
いや全然よくないんですけど。そのほかのすべてがまったく一切合切よくないんですけど。「マッドマックス:フュリオサ」の感想です。鑑賞日は2024/06/03です。#映画感想
もう忘れてしまわないうちにこれだけ言わせてもらって良いですか。
いや乳首ィ!!!!!!!!!!!!!
なんで??????????前作も相当「ええ………」って思いながら本編中で誰も触れないから俺も触れて良いのかわかんないな、みたいな要素だったあの世紀末常時露出乳首チェーン、なんでそこをブラッシュアップしたんですか????あの乳首のシーンのせいで「乳首千切られたから最終ディメンタスの負け」みたいな意味合いが付与されうる可能性を誰も考えなかったんですか?????あとあのシーンに特に意味がないなら「本当になんでだよ」しか言えなくなるんですが本当になんでなんですか?????????????まあギリギリあのシーンがあることによってイモータン勢の異常さとディメンタスのちょっと頭の悪い(ただしそれは「たとえ電極が乳首に繋がっており極端に強い力がかかったときに万が一が発生するが、ないであろう」という人間の普遍的な善性や倫理によりかかったあの世界ではもうとうに失われ、特にあの砦では一切が存在しない価値観のもと生まれている発想であるからして、して、だからなんで乳首なんだよノイズがすごい)ところを描写することができ…で……、でき…………いや俺があらゆるものごとをできる限りポジティブかつ有意であったことを見出そうとする人間だとしてもだからなんでなんだよ、ずっと混乱してるよ。なんでなんだよ。わかんないよ世紀末が。わかりたくないな。
ともあれフュリオサ(子供時代)が脚ほっっっっっそ!!!!脚はっっっっっっっっっっや!!!!!!!!になり、ご母堂の勇ましさと育成方針(敵対存在に一矢報いたのを見て「よくやった」って褒めるの生き残るために戦闘に特化した人間の言い分で好き)を大喜びし、「ご母堂!!!!!!!」って大声を出し、そこからずっと人間をモノ扱いする世界観の主観たちに最低最悪の気持ちになり、フュリオサ……生きろ…………って続編(前作)を知っているのに祈っていました。
ディメンタスくんは頑張って世紀末になんとか人間の善性を残したまま支配を試みようとして、全然そんなことできるわけないので(支配を蔓延させるにはどこかの時点で人間性を完全に手放し決別する必要があるため)あんまりにも過去の自分と過去の世界、人間たちの相互扶助でなりたっていた社会のことを引きずりすぎたんだなあと思うし、その上でなんとか「なろう」としていたので本当は殺す予定のなかった変装した仲間たちを「マジに殺せ!」って急に翻して部下に反感を抱かれたりする。
オクトボスさんはたぶんディメンタスくんの中に残り彼自身が固執している人間性の部分を信じてついてきていたのだと思うけれど、だんだんと静かに少しずつ狂っていく、人間性を失っていくディメンタスくんに見切りをつけて翻したんだろうなあ。自分の部下をディメンタスくんに貸す(うわ〜〜人間をモノとしてやりとりしている〜〜〜最低限の世紀末の嫌さ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!にはなりますが)し、たぶんいままでディメンタスくんはちゃんと返してくれていたからこそなのでしょうけど、あのガスタウン襲撃でおそらくボタンのかけ違え、歯車の噛み合わなさが決定的になってしまったんだろうな。
そんでディメンタスくんとイモータン・ジョーに共通しているのはもっと広い範囲を救う可能性がある宗教を広めたらよかったのにね、と言う話。けっきょく環境自体が人間を守らない場合(単に人間が環境に適応できずにいるだけであって環境側からしたらそれこそ自然淘汰なので自然に淘汰されてもろて……の話なのだが)、人間同士で縋って生き延びあっていく場合、共通認識と共通的はあったほうが絶対に一致団結できるというのは数々の歴史が証明しておるので。
イモータン・ジョーはウォーボーイズにはそういう詭弁を使っていたけれど人間たちには完全に食料や水を占めるという物理的な支配しか行っていないし(おそらくはね。ウォーボーイズに与えられていた、盲目的に手足となって消費を受け入れるだけの魅力に足るだけの幻想を少なくとも与えていたのであればああはならないと思うので)、ディメンタスくんもなんかこう……がんばってあの暴力が罷り通る世界に適応して成り上がろうとしてm熊のぬいぐるみとそれに付随する家族とのなにかしらを完全に捨てきれなかったから自分が徐々に歪んでいってしまうしかなくて、そういうときにものを言うのって
「なんとなく人外の力ですべてを救ってくれそうな神」の存在が一番テキメンに効くのだけど、イモータン・ジョーは自身がその位置だと思っていたしディメンタスくんはおそらくあそこに至るまでの過程でおそらく神を否定しているので全然ダメです、あ〜あ、というのは人間性最悪独裁やらせらた一番ダメなタイプの人間俺から申し上げておきます。
たぶんそういう宗教の世界観も容赦のない環境変化で「神なんかいねえよ!!!!!」みたいになっていって崩壊したんだろうなというのは容易に想像つくんだけど、ウォーボーイズくんがなまじっかみんな信仰を得ているのでやりようはあったんじゃないかな。最悪だな本当に。
今作を踏まえて前作のニュークスくんを見ると「本当に人の心を取り戻したのおめでとう」になりました。ニュークスくんはヴァルハラにはいけないけど(そんなもんないので)、もし死後の裁きとかいうものがあるのだとしたらほんのちょっとだけ良い方に行くと思うよ。
なんというか全編を通して制作側にその意図があったかはわからないけれど、生まれの次に大事なのは育ち、まるでなにもわからない赤子の状態からなにを吹き込まれて育ったか、なにを見て育ったか、善性が先にあってそこからのちずっとずっと悪逆非道を見てきた場合にどうなるのか、人間は他人から施されたものしか他者へ施すことができないという単純な話をやっていたし、怒りや憎しみという感情を保持していくのは本当に大変だけれど怒りの感情は快感と近いところにある仕組みをしているから人間の寿命が半分になりフュリオサだってもしかしたら前作のもうちょっと後で死ぬのかもしれない、それどころか日々の生活の中ですぐ隣に死がある状態で、生きる理由として選ぶにはあまりにも大変だけれど一度定めてしまえばあまりにも力強い動力源となりうるんだよな。それこそ作中で崇められているV8エンジンのように。フュリオサはそれを原動力として、しかして進むべきと決めた道がきちんと与えられた、そして急に奪われることで無理やり与えられたものごとを総合して反面教師とするだけの素質があったからこそ、ジョーの額に己の額を合わせたのだ。戦友の、絆……!!!!ってめちゃくちゃブチ上がってた。
のでディメンタスくんの最後は本当にそれなんですか!?あとそこから収穫された作物、できれば収穫までの過程を一切知らないまま人生を終えた方がよい分類になるのであの果物食べたのかな………あのひとたち……ってちょっと個人的に心配になりました。たぶんフュリオサは語らないと思うのだけど。
途中で急にディスカバリーチャンネルとかで見たことある巨大制作物過程早送りシーンが出てきたのちょっと笑っちゃったな。あそこだけプロジェクトX的なドキュメンタリーの空気があった。
出てくるメカの全部が「そうはならんやろ」を「なるんだよ」で薙ぎ倒していく造形していて本当に𝑯𝑨𝑷𝑷𝑰𝑵𝑬𝑺𝑺...でした。俺はあの映画にありとあらゆるメカの造形のとんでもなさと盛大な爆発を求めているので。全体的に前作同様、ストーリーは一本道で単純で明確で言葉だけが少なくてだからこそ人間性の多大な欠如を物語っていて、暴力と悪意は溢れていて、誰も彼もみんな奪えるとみたら全力でそうしにいくような果ての果ての果てに緑の地はもうなくて、でも確かにずっとあの世界でも大事なものを失わずにいた人間たちがごく少数はいたからフュリオサは砂漠をまっすぐ突っ切って、まっすぐ帰ってきたんだな。
それで言ったら生体メカニックさんもマジで生命についてなんの倫理も持ってなくて本当に「メカニック」(技術者であるということ)で最悪の最悪でしたね。味方であれば一見生命を優先しはするから(メカニックだからね、材料は丁寧に扱うだろうね、有益な可能性があるうちは)判断を一瞬迷うんだけど言動は完全にイモータン・ジョー側のそれだからね。つまりイモータン・ジョーは人を見る目がある。本当に最悪である。
途中、ディメンタスくんがガスタウンで煙を上げて囮とし、砦へ向かうときの行軍で道になにか撒いていたのを「……?油…か……?水分か?」ってなったんですけど「砂埃を上げないためだ」と気づくと同時に「陸上自衛隊総合火力演習の前段と後段のあいだに施設科の散水車がやるやつじゃん!!!」と気づいて脳内がめちゃくちゃ気持ち良くなったので細かすぎて誰にも共感されないポイントが最高でした。
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