「罪人たち」を観ていろんなことを考えるんだぞ。俺との約束だ。ホラー映画だけど面白そうだったので観に行ったら案の定、大面白(おおおもしろ)だったので以下、すべてがネタバレの感想。#映画感想 続きを読む冒頭から他作品の話をして申し訳ないのですが、俺が以前ホラー映画の皮を被ったわくわく大乱闘怪獣映画「NOPE」を大絶賛していたのを覚えておいででしょうか。「NOPE」はわくわく大乱闘怪獣映画ではない、というツッコミも一旦同時に傍に置いておいてください。信頼している映画人で作り上げたTLでちらほら好評なのを見てはいたのですが、いかんせんこの俺はあらゆる労働と同じくらいにホラーが嫌いです。苦手だし、嫌い。やだ。こわい。普通に嫌。衛生観が一生相入れない。怖いとかの前に汚いやろそれは。みたいになっちゃう。グロとゴアとの区別をつけんかい。痛いのは嫌なのは当たり前やろ生き物なんだから。みたいになっちゃう。とにかく苦手です。なので「罪人たち」も面白そうだけど……ホラー映画…いやでも………と悩んでいたところに、「NOPE」と似たような種類の映画であるという情報が舞い込んできて、ならいけるか……!?と腹を括った次第でした。血の出方はどっちもどっちです。俺はホラー映画を血がいっぱい出るもんだと思っている?たぶんそう。苦手ゆえにあまり触れてこなかったので理解の浅さは許してください。公式のアカウントだったかなにかで怪異が吸血鬼である、というのは事前情報で知っていたのですがいかんせん中盤結構まで吸血鬼要素が一個もなくて「おや……??」になっていたのですが、途中から急に出てくる。本当に急に吸血鬼が出てきて「お、おや……??」になり、最終的に大乱闘わくわく吸血鬼全部焼き映画になったので「おぉ………」って言ってました。大乱闘わくわく吸血鬼全部焼き映画ではないです。アパルトヘイトが罷り通っている時代、綿農園で綿花を摘む指はすべて黒くて、虐げられていた時代。わけもわからず連れてこられて、かろうじて生き延びた先祖たちが本当に拭けば飛ぶような細い炎を、しかして小さいながら確かな灯りをずっとずっと紡いできた黒人たちの中に根付いて息づく音楽というもの。以前から「一番身近な音楽楽器は人間」(一人きりでも手を叩く、や、なにかを打ち付けるなどでリズムにはじまる最小単位の音楽を奏でられるため)と思い続けているんですが、連綿と続く音楽という中に込められたそのときそのときの背景を俺はまったく知らないにも程があるのだけれど、人間が会話をしてコミュニケーションを築く生き物である限りおそらく音、という手段についてはかなり万人にとって文字通り耳を傾けるきっかけになるわけで、そしてそれは苦しい状況にある中でのたしかな光であったわけで、そうでなければ現代に至るまで音楽の持つ力が続いているわけがないので。苦しい状況にある人が、苦しいままでいろというのはまったく間違っているし、苦しい状況にある人がそれでも希望を失わないために行っているレクリエーション(ほとんど祈りの儀式だよそれは。そういう話もしていましたね)の場面だけを切り取って「彼ら彼女らは苦しんでいない」というのもまったく間違っていて、このあたりの構図は現代でもなんでも変わらないし、むしろSNSやショート動画などのインターフェイスや構造側が端的なもの、より端的なものを短絡的で瞬時の快感のために消費するスタイルになっているあたり、”いま”の俺たちの方がずっと毒されているので、改めて考えろよ、と言われているような気がしました。これは個人の感想なので「言われているような気がしました」で正しい。そして「黒人が」音楽で食っていく、ということの、あの時代における残酷さ。要するに「白人でも」「わかりやすい」「白人(おれ)たちを」「満足させる(気持ち良くしてくれる)」「音楽(何かしらのインターフェイスを持った消費しやすいなにか)」だから受け入れられたわけでしょ。文字通り「目をつぶっていても」心地よく、気持ちよく、不快にならず、演奏者のことやその音楽が生まれた背景に目を瞑っていても上っ面だけ享受して楽しんで咀嚼して吐き捨てるように消費できるものってことでしょ。あるいは芸術方面のこと、というのは古来からインテリ層やインテリぶりたい層(けっして倫理観がしっかりしていたり、善人であったりするわけではない、ということが重要)に人気の、明確な一定の点数などがつけづらい個人の好みが大きくその評価に関わってくる分野のことだからそこそこ「大衆向け」を掴んでしまえばそれなりに需要と供給が成立する。俺たちはずっと本当のところで「その個性(タレント)を、妨げるものか?肌の、色が?」を問い続けなければいけないし、なぜその肌の色が生来いなかったであろう大陸にいるのかを考え続けなければならないし、繰り返してはならない。ずっとその根本には抗っていかないといけないし、抗っていくには学ぶことをやめてはいけない。そんで急なアイリッシュ音楽祭り、なに?!!?!! 吸血鬼になるとアイリッシュ音楽を習得できるんですか!?なに!?!なんで??!??!!!!!!めちゃくちゃいい声するやんけ、みんなから!!!!!!息ぴったりやんけ!!!!(これはカラクリがわかりますが)マジで生前かなり音痴だったりしてもああなれるんですか?!?!1なんで?!??!?!!!!と思いつつ、アイリッシュ地方の移民たちのことは「片喰と黄金」で知っているので、彼ら彼女らもまたアメリカ大陸に移ってきてそこでなんやかやあったために、故郷のことを想う手段としての音楽を持ち合わせているのだな、とは思いました。なんか……なんか急にダンスしだすのちょっと面白かったですけど……………。あと「吸血鬼は招かれていない家(場所)に入れない」と「にんにくや銀に弱い」をやるのに最後サミーのことをめちゃくちゃ水の中に追い詰めていて、最初あそこ川かと思っていたので「銀やら入れないやらはやるのに川は渡れるんかい!!!!!」(川だと思っていたので吸血鬼は入れないから実質勝利やんサミー!!!って思っていた)になったんですが、よく見たらとくに波が立っていたりはしなくて流れてないっぽいからあそこは湖とか溜池みたいな感じだったんですかね? もともと製造所だったようだし、水源地的な………?たぶんそう。吸血鬼招かれていない場所にいけないネタをずっとやってるの律儀でちょっと面白かったし、わたしはああいう境界線を越えられるかどうかで人間かどうかを試される要素が大好きなのでニコ………ってしていました。最後のバーのシーンも本当に良かったですね。最初、吸血鬼とかホラー要素とか全然ないから「???」になっていたのだけれど、あれは最後の最後ですべてを失うための丁寧な伏線で、それでも残ったものの輝きを小さいながら確実に光らせるための丁寧な描写だったんだな………土地を移るということの大変さを、たいていの人間がその生まれや今現在で知っているからこその、それらが失われるることと、回想するたびに強くなっていくそのときどきの情景が美しかったことなどがまざまざと伝わってくる。無知なころは差別……よくわからん……になっていたのだけれど、最近(一応年月で言えば数年以上経ってるけど、あまりにそうでなかった頃が長いので最近と短めに言っています)ようやくいろいろなことを見聞きしてそこから学ぶ、ということが曲がりなりにも形になってきつつあるのであの映画の時代背景を考えるとすべてがクソなのですが、「そうしなければならなかった」のか?本当に?という問いと、それはそれとして差別は全部クソ、という確信は両立するので、ずっとそうやってこれからも考えることをやめたくないな、と思う映画でした。奪われたものを取り戻すとかではない、でも地に足ついていま持ってるものを「これ以上」奪わせないっていう、「これ以上」なんだよ……そこにしがみつく人間の……人間の……でっけぇ愛……俺はなんでもでっけぇ愛って言いがちですけど……魂のはなし…………。そしてサミーのように「そうせざるを得ない」ほどの魂と密接に関わるなにかを持って産まれる人間は確かにいて、その人間に対してそれを手放せというのはお前の魂を自らで殺せと言っているのと同義で、選ぶことには困難が伴い、時にはまったく別の離別を必要とするが、それでも選んだものを、ずっと手放してはいけない。そういう話だった。 いえ、あの、時代背景を加味したいろいろと言いたいことはめちゃくちゃあるのですが(先日「アファーマティブ・アクション 平等への切り札か、逆差別か」(南川文里 著)を読み終えたところだったのでその辺もスッと入ってきやすく、キツです………にはなっていたのですが………。サミーが最後、ギターを手放すかどうかのところで「やめろ〜〜!!!!!!そのままいけ〜〜〜ッッッッおまえのオールを他人に任せるな!!!!!!!!!(中島みゆきが好きです)サミーーーーーーッッッッッ!!!!いけ〜〜〜ッッ差せ〜〜〜〜!!!!!!」って競馬でも見てるんですか?みたいな応援しちゃったもんな。そのあとサミーがギターのヘッドだけ持って車運転してて泣いちゃった。それでいいんだ……と俺は安易に言えないけど………!!!!! そして最後の最後にさあ!!!!!あのとき殺しきれなかった吸血鬼になった二人がさあ!!!!サミーのことをさ……でもちゃんと約束守るんだよな………時代に適応して生きているし、多分その辺の人間のことは趣味で殺したり仲間にしたりしてるんだろうけど………。あの吸血鬼たちは感覚や記憶を共有しているってことは、たぶんあの最初のアイルランド吸血鬼たちに噛まれて吸血鬼になったときに彼ら彼女らの記憶や感覚も共有していて、おそらく移民というところで(自発的な移民か奴隷として連れてこられたかの違いはあれど)共感(共鳴?共振?)はあったのかな、故郷を想う気持ちの部分はどこからどこへ移動したって続くものな、ある程度は、という気がしている。彼ら彼女らの魂はあそこで燃えてそれで終わりなのだろうか。もう消えてしまったんだろうか。白人を容赦なく殺し、同胞だって容赦なく殺したスモークが最後に見たあの景色は天国だったんですか?あるいは取り戻したと思ったアニーと自らの子を再度失って地獄に行くのだろうか。それがスモークの罪なんだろうか。タイトルもキャラビジュアルも「WE ARE ALL SINNERS」で、そう、彼ら彼女らはみんな罪人なのだ。畳む いいね ありがとうございます! 2025.7.3(Thu) 21:47:21 つらつら
ホラー映画だけど面白そうだったので観に行ったら案の定、大面白(おおおもしろ)だったので以下、すべてがネタバレの感想。
#映画感想
冒頭から他作品の話をして申し訳ないのですが、俺が以前ホラー映画の皮を被ったわくわく大乱闘怪獣映画「NOPE」を大絶賛していたのを覚えておいででしょうか。「NOPE」はわくわく大乱闘怪獣映画ではない、というツッコミも一旦同時に傍に置いておいてください。
信頼している映画人で作り上げたTLでちらほら好評なのを見てはいたのですが、いかんせんこの俺はあらゆる労働と同じくらいにホラーが嫌いです。苦手だし、嫌い。やだ。こわい。普通に嫌。衛生観が一生相入れない。怖いとかの前に汚いやろそれは。みたいになっちゃう。グロとゴアとの区別をつけんかい。痛いのは嫌なのは当たり前やろ生き物なんだから。みたいになっちゃう。とにかく苦手です。
なので「罪人たち」も面白そうだけど……ホラー映画…いやでも………と悩んでいたところに、「NOPE」と似たような種類の映画であるという情報が舞い込んできて、ならいけるか……!?と腹を括った次第でした。血の出方はどっちもどっちです。俺はホラー映画を血がいっぱい出るもんだと思っている?たぶんそう。苦手ゆえにあまり触れてこなかったので理解の浅さは許してください。
公式のアカウントだったかなにかで怪異が吸血鬼である、というのは事前情報で知っていたのですがいかんせん中盤結構まで吸血鬼要素が一個もなくて「おや……??」になっていたのですが、途中から急に出てくる。本当に急に吸血鬼が出てきて「お、おや……??」になり、最終的に大乱闘わくわく吸血鬼全部焼き映画になったので「おぉ………」って言ってました。大乱闘わくわく吸血鬼全部焼き映画ではないです。
アパルトヘイトが罷り通っている時代、綿農園で綿花を摘む指はすべて黒くて、虐げられていた時代。
わけもわからず連れてこられて、かろうじて生き延びた先祖たちが本当に拭けば飛ぶような細い炎を、しかして小さいながら確かな灯りをずっとずっと紡いできた黒人たちの中に根付いて息づく音楽というもの。
以前から「一番身近な音楽楽器は人間」(一人きりでも手を叩く、や、なにかを打ち付けるなどでリズムにはじまる最小単位の音楽を奏でられるため)と思い続けているんですが、連綿と続く音楽という中に込められたそのときそのときの背景を俺はまったく知らないにも程があるのだけれど、人間が会話をしてコミュニケーションを築く生き物である限りおそらく音、という手段についてはかなり万人にとって文字通り耳を傾けるきっかけになるわけで、そしてそれは苦しい状況にある中でのたしかな光であったわけで、そうでなければ現代に至るまで音楽の持つ力が続いているわけがないので。
苦しい状況にある人が、苦しいままでいろというのはまったく間違っているし、苦しい状況にある人がそれでも希望を失わないために行っているレクリエーション(ほとんど祈りの儀式だよそれは。そういう話もしていましたね)の場面だけを切り取って「彼ら彼女らは苦しんでいない」というのもまったく間違っていて、このあたりの構図は現代でもなんでも変わらないし、むしろSNSやショート動画などのインターフェイスや構造側が端的なもの、より端的なものを短絡的で瞬時の快感のために消費するスタイルになっているあたり、”いま”の俺たちの方がずっと毒されているので、改めて考えろよ、と言われているような気がしました。これは個人の感想なので「言われているような気がしました」で正しい。
そして「黒人が」音楽で食っていく、ということの、あの時代における残酷さ。
要するに「白人でも」「わかりやすい」「白人(おれ)たちを」「満足させる(気持ち良くしてくれる)」「音楽(何かしらのインターフェイスを持った消費しやすいなにか)」だから受け入れられたわけでしょ。文字通り「目をつぶっていても」心地よく、気持ちよく、不快にならず、演奏者のことやその音楽が生まれた背景に目を瞑っていても上っ面だけ享受して楽しんで咀嚼して吐き捨てるように消費できるものってことでしょ。
あるいは芸術方面のこと、というのは古来からインテリ層やインテリぶりたい層(けっして倫理観がしっかりしていたり、善人であったりするわけではない、ということが重要)に人気の、明確な一定の点数などがつけづらい個人の好みが大きくその評価に関わってくる分野のことだからそこそこ「大衆向け」を掴んでしまえばそれなりに需要と供給が成立する。
俺たちはずっと本当のところで「その個性(タレント)を、妨げるものか?肌の、色が?」を問い続けなければいけないし、なぜその肌の色が生来いなかったであろう大陸にいるのかを考え続けなければならないし、繰り返してはならない。ずっとその根本には抗っていかないといけないし、抗っていくには学ぶことをやめてはいけない。
そんで急なアイリッシュ音楽祭り、なに?!!?!! 吸血鬼になるとアイリッシュ音楽を習得できるんですか!?なに!?!なんで??!??!!!!!!めちゃくちゃいい声するやんけ、みんなから!!!!!!息ぴったりやんけ!!!!(これはカラクリがわかりますが)マジで生前かなり音痴だったりしてもああなれるんですか?!?!1なんで?!??!?!!!!
と思いつつ、アイリッシュ地方の移民たちのことは「片喰と黄金」で知っているので、彼ら彼女らもまたアメリカ大陸に移ってきてそこでなんやかやあったために、故郷のことを想う手段としての音楽を持ち合わせているのだな、とは思いました。なんか……なんか急にダンスしだすのちょっと面白かったですけど……………。
あと「吸血鬼は招かれていない家(場所)に入れない」と「にんにくや銀に弱い」をやるのに最後サミーのことをめちゃくちゃ水の中に追い詰めていて、最初あそこ川かと思っていたので「銀やら入れないやらはやるのに川は渡れるんかい!!!!!」(川だと思っていたので吸血鬼は入れないから実質勝利やんサミー!!!って思っていた)になったんですが、よく見たらとくに波が立っていたりはしなくて流れてないっぽいからあそこは湖とか溜池みたいな感じだったんですかね? もともと製造所だったようだし、水源地的な………?たぶんそう。吸血鬼招かれていない場所にいけないネタをずっとやってるの律儀でちょっと面白かったし、わたしはああいう境界線を越えられるかどうかで人間かどうかを試される要素が大好きなのでニコ………ってしていました。最後のバーのシーンも本当に良かったですね。
最初、吸血鬼とかホラー要素とか全然ないから「???」になっていたのだけれど、あれは最後の最後ですべてを失うための丁寧な伏線で、それでも残ったものの輝きを小さいながら確実に光らせるための丁寧な描写だったんだな………土地を移るということの大変さを、たいていの人間がその生まれや今現在で知っているからこその、それらが失われるることと、回想するたびに強くなっていくそのときどきの情景が美しかったことなどがまざまざと伝わってくる。
無知なころは差別……よくわからん……になっていたのだけれど、最近(一応年月で言えば数年以上経ってるけど、あまりにそうでなかった頃が長いので最近と短めに言っています)ようやくいろいろなことを見聞きしてそこから学ぶ、ということが曲がりなりにも形になってきつつあるのであの映画の時代背景を考えるとすべてがクソなのですが、「そうしなければならなかった」のか?本当に?という問いと、それはそれとして差別は全部クソ、という確信は両立するので、ずっとそうやってこれからも考えることをやめたくないな、と思う映画でした。
奪われたものを取り戻すとかではない、でも地に足ついていま持ってるものを「これ以上」奪わせないっていう、「これ以上」なんだよ……そこにしがみつく人間の……人間の……でっけぇ愛……俺はなんでもでっけぇ愛って言いがちですけど……魂のはなし…………。そしてサミーのように「そうせざるを得ない」ほどの魂と密接に関わるなにかを持って産まれる人間は確かにいて、その人間に対してそれを手放せというのはお前の魂を自らで殺せと言っているのと同義で、選ぶことには困難が伴い、時にはまったく別の離別を必要とするが、それでも選んだものを、ずっと手放してはいけない。そういう話だった。 いえ、あの、時代背景を加味したいろいろと言いたいことはめちゃくちゃあるのですが(先日「アファーマティブ・アクション 平等への切り札か、逆差別か」(南川文里 著)を読み終えたところだったのでその辺もスッと入ってきやすく、キツです………にはなっていたのですが………。
サミーが最後、ギターを手放すかどうかのところで「やめろ〜〜!!!!!!そのままいけ〜〜〜ッッッッおまえのオールを他人に任せるな!!!!!!!!!(中島みゆきが好きです)サミーーーーーーッッッッッ!!!!いけ〜〜〜ッッ差せ〜〜〜〜!!!!!!」って競馬でも見てるんですか?みたいな応援しちゃったもんな。そのあとサミーがギターのヘッドだけ持って車運転してて泣いちゃった。それでいいんだ……と俺は安易に言えないけど………!!!!! そして最後の最後にさあ!!!!!あのとき殺しきれなかった吸血鬼になった二人がさあ!!!!サミーのことをさ……でもちゃんと約束守るんだよな………時代に適応して生きているし、多分その辺の人間のことは趣味で殺したり仲間にしたりしてるんだろうけど………。
あの吸血鬼たちは感覚や記憶を共有しているってことは、たぶんあの最初のアイルランド吸血鬼たちに噛まれて吸血鬼になったときに彼ら彼女らの記憶や感覚も共有していて、おそらく移民というところで(自発的な移民か奴隷として連れてこられたかの違いはあれど)共感(共鳴?共振?)はあったのかな、故郷を想う気持ちの部分はどこからどこへ移動したって続くものな、ある程度は、という気がしている。
彼ら彼女らの魂はあそこで燃えてそれで終わりなのだろうか。もう消えてしまったんだろうか。白人を容赦なく殺し、同胞だって容赦なく殺したスモークが最後に見たあの景色は天国だったんですか?あるいは取り戻したと思ったアニーと自らの子を再度失って地獄に行くのだろうか。それがスモークの罪なんだろうか。
タイトルもキャラビジュアルも「WE ARE ALL SINNERS」で、そう、彼ら彼女らはみんな罪人なのだ。
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