全年全月3日の投稿[5件]
2025年7月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
2024年6月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
映画感想:劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』を観る前にはジムに行け。
たまたま時間の都合でジムでキツめの運動した後に観に言ったんですが、作中トレーニングシーンへの没入感が段違いでした、という話ではないんです。すべてがネタバレ。#映画感想
ウマ娘プリティーダービー、ゲーム作品として名前は知っていてたまにTLにファンアートが流れてくるなあ……と思いながらもゲームも触っていなければ実存の競走馬にも興味がなく、ただ生き物としての馬は好き好き大好きなのでその一点だけで突破できるだろう、という気持ちで観に行きました。あと感性を信頼しているフォロワーが絶賛していたので。俺たちは結局フォロワーの口コミを信じるよな。感性を信じてるから。
映画冒頭でちゃんとウマ娘とはなにか、の説明が入ったので「は〜なるほどそういうもの」という理解が早くて助かりました。すごいね、本当に何にも知らない人間が来ることを想定しているし、知っている人はおそらくゲーム本編の冒頭導入の読み上げみたいな感じで「はいはいはい」になるんだろうな、構成がもう冒頭3秒で上手い。どういうこっちゃ。
ところであの短い説明を聞くに「ウマ娘世界線は明確に現行地球世界に実存するあらゆる競走馬の情報を観測している」ことになるんですがそれはどのタイミングで行われたんですか?科学や技術でなんとかなっている分野なんですか?それとも生まれたウマ娘自身が「おのれたちはこういうものである」と語ったんですか?それであれば最初にそれを語ったウマ娘はもうそれは神話ですが………とよくわからんSF好きの魂が刺激されてしっちゃかめっちゃか。でもああいう競走馬の名前を魂に冠した存在であるからこそ、実際に生じたレースの結果とはまた違った結果を生むことができる、という全部の可能性に変えてしまうの本当に設定が上手い。別の作品を出してしまって申し訳ないけど、このあたり「刀剣乱舞」における「この本丸」設定に近いところがあるな。各プレイヤー(トレーナー)がそれぞれに築いたウマ娘たちとの物語を否定しない、すべてを「そうだったかもしれない」という可能性の話にするの、良い。あとレースにたらればの話をしてもね、というの作中で言及させるのメタでいいな……。
本当にずっとずっと画面が綺麗で絵がうまくてレース中のもう自分と世界との境目も曖昧になるような、薄皮一枚で爆発しそうになる緊張感と肉薄した本能で前に出る、言葉にするにもやぼったく遅い、ただただ走りたいという欲求の表現をああいう風にするの、すごくいいですね。初見の人間にも彼女らの見えている世界とはこういうものであり、それぞれに違いがあり、だけれど強い光はすべてを焼くし、強い光に焼かれたらずっと影がそこに残り続けるんだよ、という共通点もすぐにわかるし、圧倒的に光の話だった………。
柳の下にいるのは幽霊と相場が決まっているのでフジキセキさんも物語が始まった時点では幽霊だったし、アグネスタキオンさんは自分で幽霊になりにいったけど二人(一頭、の単位ではないよな………ウマ娘さんたちは……)ともジャングルポケットちゃんに再び太陽の下に引き摺り出されて幽霊ではなくなったの本当に良かったですね。それが本当に良かったかどうかはわかりませんがたぶん本ウマ(本バ?作中の表現でいうと)たちもにこやかだったので良かったのでしょう。
フジキセキさんの勝負服だけ本当にびっくりしましたどういうこっちゃ、そこは開いていていいところなのですか?!!!!!それまでに出てきたウマ娘さんたちの衣装、お腹や脚がそこそこ出ていてもセンシティブさはなかったのでびっくらこきました本当に。いやでもポッケちゃんも結構だったなよく見たら………肩が出ていないのでなんとなく大丈夫の判定をしていました。マンハッタンカフェさんの勝負服可愛かったな………あと明らかにペリーがいたな…………ペリースチームさん…か………!?お名前をね……ちょっとね…個体の顔と名前がすぐ一致しないもんでね…………!
アグネスタキオンもポッケちゃんと一緒で(すみませんがジャングルポケットさんと『ポッケちゃん』と呼ぶのがあまりにも可愛いくてよいので以下ポッケちゃんと称させてください)自分の限界を勝手に決めて勝手にそこまでだと自分の頭をずっと押さえつけていて、だから最後のポッケちゃんの走りで自分も走りだせたんだよな……同じ境遇の同士ではあったのだ。
ずっとアグネスタキオンさんのお部屋は燦々と陽があたっていてサンキャッチャーが無邪気に部屋中に光をばらまいて、でもそこでアグネスタキオンさんはずっと止まっているしかなかったから、柳の下から出るときに自分の部屋のカーテンを閉めて部屋中真っ暗にしていったのよかったな。本来あそこは空白の棺桶であるはずで、なまじ陽光が降り注ぐためにアグネスタキオンさんはあそこを開かれた場所だと思っていて、でも本当は棺桶なので中を空にして蓋を閉めていく必要があるのだよな……これは全部初見の人間の完全な無知に基づく感想なので細かいところは全部気にしないでください。
ダンツフレームさんも急に駆け上がってきたとき爆裂に泣いてしまった。みなさんお口を大きく開けがちですが歯並びがきちんとしていていいね……みたいなことを並行処理することで喉から勝手に嗚咽が飛び出していくのを防いでいるまであった。でも鼻詰まりがすごくてマジで呼吸が困難になった。途中からずっとわけわからんくらいずっと泣いてたので本当に訳が分からなかったな………大白熱本能大爆発激アツスポーツムービーでした。
でも途中出ててきた超巨大タイヤだけは本当に急で声出るのを止めるのがめちゃくちゃ難しかったです。予告で散々見てたけど、二回出てくると思わないじゃん。あんなん出して許されるの、ドウェイン・ジョンソン(ロック様)だけだと思っていた。ウマ娘さんでもあるんだな。
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たまたま時間の都合でジムでキツめの運動した後に観に言ったんですが、作中トレーニングシーンへの没入感が段違いでした、という話ではないんです。すべてがネタバレ。#映画感想
ウマ娘プリティーダービー、ゲーム作品として名前は知っていてたまにTLにファンアートが流れてくるなあ……と思いながらもゲームも触っていなければ実存の競走馬にも興味がなく、ただ生き物としての馬は好き好き大好きなのでその一点だけで突破できるだろう、という気持ちで観に行きました。あと感性を信頼しているフォロワーが絶賛していたので。俺たちは結局フォロワーの口コミを信じるよな。感性を信じてるから。
映画冒頭でちゃんとウマ娘とはなにか、の説明が入ったので「は〜なるほどそういうもの」という理解が早くて助かりました。すごいね、本当に何にも知らない人間が来ることを想定しているし、知っている人はおそらくゲーム本編の冒頭導入の読み上げみたいな感じで「はいはいはい」になるんだろうな、構成がもう冒頭3秒で上手い。どういうこっちゃ。
ところであの短い説明を聞くに「ウマ娘世界線は明確に現行地球世界に実存するあらゆる競走馬の情報を観測している」ことになるんですがそれはどのタイミングで行われたんですか?科学や技術でなんとかなっている分野なんですか?それとも生まれたウマ娘自身が「おのれたちはこういうものである」と語ったんですか?それであれば最初にそれを語ったウマ娘はもうそれは神話ですが………とよくわからんSF好きの魂が刺激されてしっちゃかめっちゃか。でもああいう競走馬の名前を魂に冠した存在であるからこそ、実際に生じたレースの結果とはまた違った結果を生むことができる、という全部の可能性に変えてしまうの本当に設定が上手い。別の作品を出してしまって申し訳ないけど、このあたり「刀剣乱舞」における「この本丸」設定に近いところがあるな。各プレイヤー(トレーナー)がそれぞれに築いたウマ娘たちとの物語を否定しない、すべてを「そうだったかもしれない」という可能性の話にするの、良い。あとレースにたらればの話をしてもね、というの作中で言及させるのメタでいいな……。
本当にずっとずっと画面が綺麗で絵がうまくてレース中のもう自分と世界との境目も曖昧になるような、薄皮一枚で爆発しそうになる緊張感と肉薄した本能で前に出る、言葉にするにもやぼったく遅い、ただただ走りたいという欲求の表現をああいう風にするの、すごくいいですね。初見の人間にも彼女らの見えている世界とはこういうものであり、それぞれに違いがあり、だけれど強い光はすべてを焼くし、強い光に焼かれたらずっと影がそこに残り続けるんだよ、という共通点もすぐにわかるし、圧倒的に光の話だった………。
柳の下にいるのは幽霊と相場が決まっているのでフジキセキさんも物語が始まった時点では幽霊だったし、アグネスタキオンさんは自分で幽霊になりにいったけど二人(一頭、の単位ではないよな………ウマ娘さんたちは……)ともジャングルポケットちゃんに再び太陽の下に引き摺り出されて幽霊ではなくなったの本当に良かったですね。それが本当に良かったかどうかはわかりませんがたぶん本ウマ(本バ?作中の表現でいうと)たちもにこやかだったので良かったのでしょう。
フジキセキさんの勝負服だけ本当にびっくりしましたどういうこっちゃ、そこは開いていていいところなのですか?!!!!!それまでに出てきたウマ娘さんたちの衣装、お腹や脚がそこそこ出ていてもセンシティブさはなかったのでびっくらこきました本当に。いやでもポッケちゃんも結構だったなよく見たら………肩が出ていないのでなんとなく大丈夫の判定をしていました。マンハッタンカフェさんの勝負服可愛かったな………あと明らかにペリーがいたな…………ペリースチームさん…か………!?お名前をね……ちょっとね…個体の顔と名前がすぐ一致しないもんでね…………!
アグネスタキオンもポッケちゃんと一緒で(すみませんがジャングルポケットさんと『ポッケちゃん』と呼ぶのがあまりにも可愛いくてよいので以下ポッケちゃんと称させてください)自分の限界を勝手に決めて勝手にそこまでだと自分の頭をずっと押さえつけていて、だから最後のポッケちゃんの走りで自分も走りだせたんだよな……同じ境遇の同士ではあったのだ。
ずっとアグネスタキオンさんのお部屋は燦々と陽があたっていてサンキャッチャーが無邪気に部屋中に光をばらまいて、でもそこでアグネスタキオンさんはずっと止まっているしかなかったから、柳の下から出るときに自分の部屋のカーテンを閉めて部屋中真っ暗にしていったのよかったな。本来あそこは空白の棺桶であるはずで、なまじ陽光が降り注ぐためにアグネスタキオンさんはあそこを開かれた場所だと思っていて、でも本当は棺桶なので中を空にして蓋を閉めていく必要があるのだよな……これは全部初見の人間の完全な無知に基づく感想なので細かいところは全部気にしないでください。
ダンツフレームさんも急に駆け上がってきたとき爆裂に泣いてしまった。みなさんお口を大きく開けがちですが歯並びがきちんとしていていいね……みたいなことを並行処理することで喉から勝手に嗚咽が飛び出していくのを防いでいるまであった。でも鼻詰まりがすごくてマジで呼吸が困難になった。途中からずっとわけわからんくらいずっと泣いてたので本当に訳が分からなかったな………大白熱本能大爆発激アツスポーツムービーでした。
でも途中出ててきた超巨大タイヤだけは本当に急で声出るのを止めるのがめちゃくちゃ難しかったです。予告で散々見てたけど、二回出てくると思わないじゃん。あんなん出して許されるの、ドウェイン・ジョンソン(ロック様)だけだと思っていた。ウマ娘さんでもあるんだな。
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2024年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
映画感想:俺はこの感情の名前をまだ知らないと思う。
「オッペンハイマー」観てきました。ま〜〜〜じで全然言いたいことが固まらない。#映画感想
まずもって公開前にわりとそこそこ大きな範囲で話題になったネットミームがあったと思うんですが、マジであのミームは最悪だったし、あのミームを観測した上でちゃんと本編を己の目で観に行くことができてよかったと思いました。あのミームが茶化しているのがあくまで「それぞれの映画の内容からおおよその人間が想起されるであろう感情の乱高下」そのものであるところまではよかった、いやそれも微妙ではあるが俺も含めたオタクたちって過剰な言葉をわざと使ってエンタメ的に消費することあるじゃん。この態度自体がめちゃくちゃ最悪なんですけどね……はい………そこについては俺もそうなので何も言えないのですけど、ともかく本編を観せろ話はそれからだ、とずっと思っていた甲斐がありました。
あくまでオッペンハイマーという一個人、一科学者の物語だとは思っていたのであれが手放しで歓迎されたとも思わないし、あの映画を観て原爆やそもそも他人の生命や人生を顔も名前も知らない漠然とした「権力」とかいうものを持っているだけの人間がどうこうしていいと思ってんのか?という強い怒りはさておいて、一個人の物語とするのであればかなり、思ったよりかなり、ものすごくとっても政治の話をしていてびっくりしました。
日々の生活が政治の話ではないことってないのですけど、特に我が家は政治の話を家族間でしなかった(選挙には一緒に行っていたが誰に投票したかを相互に機密として扱っており、話題に出さなかった)家だったし、特に政治と野球の話は他人とする場合にかなりお互いの距離感や信頼が大事になってくる分野の話だからそうそう頻繁にするものでもない日常を送っていたのだけれど、そうだよな、戦争って政治だよな、と改めて思いました。
日々の生活が政治と不可分であるなら、政治と戦争が不可分であるなら、俺たちの生活を本当に注意深く扱っていかないとあっという間に戦争になりうるし、科学や技術の分野それそのものはただの結果であったとしてそれをどう扱うかは人間側に委ねられているのだぞ、という認識が欠如するの、本当に簡単だし自分から遠くなればなるほど無関心になっていくから、ああなるんだろうな。
いままで映画を観てきてスクリーン上でえがかれていることに対してやるせなさとか怒りの方向で涙が出たことなかったんですけど、原爆を落とす都市を選定しているシーンと実験の無音で上がる火柱のシーンだけ、いままで抱いたことなかった感情の、多分あれは強い怒りであったり自分自身が彼ら彼女らと同じ人間であることへの強い嫌悪だったり、とにかくそういった物凄く強くて物凄くネガティブで、それでいて生きていく上で俺や俺の大事な人や俺の嫌いな人間にも俺が思う大事な人たちがいるのかもしれないという可能性を忘れないために楔のように自らの中から決して失ってはいけない、錨のような感情で涙が出ました。
あの〜〜〜〜〜本当にここは言葉を砕かないと全然なんにも言いたいこと言えないという自分の未熟さを全面に出した上で書く段落なんですけど、ま〜〜〜〜〜〜〜じであの選定会議でそういう発言があったのだとしたら本当に本当に嫌です。うるせ〜〜〜〜〜〜1!!!!!!!!!!!!!!って大声出るかと思いましたからね。目の前にいたとしたら拳の中に石握り込んで全力で殴りますよあの人のことを。ただこれは「そこにいる人間たちのひとりひとりを知ることはできないし、知ることはできないから人間を数として扱える」という本当に大切なことがえがかれているシーンでもあるので、どのみち心に刻まなければならない。
これはたびたび言っているんですけど、まずもって世界の大前提として自他を傷つけていい正当な理由なんかひとっつもこの世にないんですよ。理性があるのであればいっときの衝動性なんかに身を任せている場合ではないし、理性があることは人として大事な心を失うことでもないし、他人になにかの破壊衝動を向けたときそれが己に同じ力かそれ以上の力でかえってくる可能性って100%いつなんどきもあるので。自分と他人の区別がついていれば自分と他人は別の個体であってなにひとつそこにお互いを傷つけていい理由がないことはわかるはずなんですけど、そしてそれを文化と呼んできたんでないんですか、という問いかけなのですけれども。
実験が終わったあとの土地を先住民に返すとかさらっと言ってましたけど、それも被爆云々の話を知っている側からすれば最悪も最悪で「最悪…………」って本当に口から飛び出すかと思いました。最悪のフルコース食べてんのか?胸焼けがすごいが?
ただ、表現としてすごいなと思ったのは実験成功後の演説会場で喝采に混ざった本当の悲鳴(なんか一際あの声だけ違うな、という「キャーーー!!!」っていう恐怖とかそう言った方面からの絶叫があった)と、階段上のベンチ(っていうんですか、観客が座る側の……)から人が軽くジャンプしながら飛び降りてオッペンハイマーの方を叩いたりする最後にドサっと右側の方に落ちたのはあれ黒焦げの死体ではなかったですか。これは俺の見間違いかもしれないけど、その前にオッペンハイマーが足元で踏み壊した真っ黒な空洞のひとがたのものと同じ色をしていた気がする。
俺自身について、祖父は二人とも徴兵の年に終戦したのと体が小さくて兵役に合格しなかったのとで戦場に行かずに済んだ家系で、祖母はまだ戦時中のことを思い出すからさつまいもが嫌いなのは知っていて、ほんの少しの食料を兄妹で取り合って殴られたりした話を聞いたことがあるくらいで、全然戦争から遠いところにいる家で生まれて育って、触れたのだって歴史の授業でくらいで、修学旅行は沖縄だったから当然ひめゆりの塔は行ったのですけれどじぶんごととして捉えられたかというと人生経験のなさから全然ピンときてなくて、それでも広島に船を見に行ったときに原爆ドームを見て心臓がぎゅっとなったし原爆ドームを背景に笑顔でピースしながら写真を撮ってる観光客の感情がまったく理解できなかったことはあるんですよ。
他人の考えていることなんか他の誰にもわからないし、だからこそ何を言わずにいるかの選択が重要になってくる人生というもののなかで物は言いよう大スペシャルをやるのが政治で、それは日常生活を地続きなので、どっかの知らん誰かは俺たちをどっかの知らんただの数として扱うことが容易に平易にできるのだから、そっちに世界が向かおうとするなら俺は全力で拳を振るうしかないな、物理的にじゃなくてそれ以外のすべての人道に則った方法で。
無知であることは、ああやってただ数えられるだけの存在になるのだ、という自戒を新たにしました。全然なんもまとまらないね。時間が必要だ。
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「オッペンハイマー」観てきました。ま〜〜〜じで全然言いたいことが固まらない。#映画感想
まずもって公開前にわりとそこそこ大きな範囲で話題になったネットミームがあったと思うんですが、マジであのミームは最悪だったし、あのミームを観測した上でちゃんと本編を己の目で観に行くことができてよかったと思いました。あのミームが茶化しているのがあくまで「それぞれの映画の内容からおおよその人間が想起されるであろう感情の乱高下」そのものであるところまではよかった、いやそれも微妙ではあるが俺も含めたオタクたちって過剰な言葉をわざと使ってエンタメ的に消費することあるじゃん。この態度自体がめちゃくちゃ最悪なんですけどね……はい………そこについては俺もそうなので何も言えないのですけど、ともかく本編を観せろ話はそれからだ、とずっと思っていた甲斐がありました。
あくまでオッペンハイマーという一個人、一科学者の物語だとは思っていたのであれが手放しで歓迎されたとも思わないし、あの映画を観て原爆やそもそも他人の生命や人生を顔も名前も知らない漠然とした「権力」とかいうものを持っているだけの人間がどうこうしていいと思ってんのか?という強い怒りはさておいて、一個人の物語とするのであればかなり、思ったよりかなり、ものすごくとっても政治の話をしていてびっくりしました。
日々の生活が政治の話ではないことってないのですけど、特に我が家は政治の話を家族間でしなかった(選挙には一緒に行っていたが誰に投票したかを相互に機密として扱っており、話題に出さなかった)家だったし、特に政治と野球の話は他人とする場合にかなりお互いの距離感や信頼が大事になってくる分野の話だからそうそう頻繁にするものでもない日常を送っていたのだけれど、そうだよな、戦争って政治だよな、と改めて思いました。
日々の生活が政治と不可分であるなら、政治と戦争が不可分であるなら、俺たちの生活を本当に注意深く扱っていかないとあっという間に戦争になりうるし、科学や技術の分野それそのものはただの結果であったとしてそれをどう扱うかは人間側に委ねられているのだぞ、という認識が欠如するの、本当に簡単だし自分から遠くなればなるほど無関心になっていくから、ああなるんだろうな。
いままで映画を観てきてスクリーン上でえがかれていることに対してやるせなさとか怒りの方向で涙が出たことなかったんですけど、原爆を落とす都市を選定しているシーンと実験の無音で上がる火柱のシーンだけ、いままで抱いたことなかった感情の、多分あれは強い怒りであったり自分自身が彼ら彼女らと同じ人間であることへの強い嫌悪だったり、とにかくそういった物凄く強くて物凄くネガティブで、それでいて生きていく上で俺や俺の大事な人や俺の嫌いな人間にも俺が思う大事な人たちがいるのかもしれないという可能性を忘れないために楔のように自らの中から決して失ってはいけない、錨のような感情で涙が出ました。
あの〜〜〜〜〜本当にここは言葉を砕かないと全然なんにも言いたいこと言えないという自分の未熟さを全面に出した上で書く段落なんですけど、ま〜〜〜〜〜〜〜じであの選定会議でそういう発言があったのだとしたら本当に本当に嫌です。うるせ〜〜〜〜〜〜1!!!!!!!!!!!!!!って大声出るかと思いましたからね。目の前にいたとしたら拳の中に石握り込んで全力で殴りますよあの人のことを。ただこれは「そこにいる人間たちのひとりひとりを知ることはできないし、知ることはできないから人間を数として扱える」という本当に大切なことがえがかれているシーンでもあるので、どのみち心に刻まなければならない。
これはたびたび言っているんですけど、まずもって世界の大前提として自他を傷つけていい正当な理由なんかひとっつもこの世にないんですよ。理性があるのであればいっときの衝動性なんかに身を任せている場合ではないし、理性があることは人として大事な心を失うことでもないし、他人になにかの破壊衝動を向けたときそれが己に同じ力かそれ以上の力でかえってくる可能性って100%いつなんどきもあるので。自分と他人の区別がついていれば自分と他人は別の個体であってなにひとつそこにお互いを傷つけていい理由がないことはわかるはずなんですけど、そしてそれを文化と呼んできたんでないんですか、という問いかけなのですけれども。
実験が終わったあとの土地を先住民に返すとかさらっと言ってましたけど、それも被爆云々の話を知っている側からすれば最悪も最悪で「最悪…………」って本当に口から飛び出すかと思いました。最悪のフルコース食べてんのか?胸焼けがすごいが?
ただ、表現としてすごいなと思ったのは実験成功後の演説会場で喝采に混ざった本当の悲鳴(なんか一際あの声だけ違うな、という「キャーーー!!!」っていう恐怖とかそう言った方面からの絶叫があった)と、階段上のベンチ(っていうんですか、観客が座る側の……)から人が軽くジャンプしながら飛び降りてオッペンハイマーの方を叩いたりする最後にドサっと右側の方に落ちたのはあれ黒焦げの死体ではなかったですか。これは俺の見間違いかもしれないけど、その前にオッペンハイマーが足元で踏み壊した真っ黒な空洞のひとがたのものと同じ色をしていた気がする。
俺自身について、祖父は二人とも徴兵の年に終戦したのと体が小さくて兵役に合格しなかったのとで戦場に行かずに済んだ家系で、祖母はまだ戦時中のことを思い出すからさつまいもが嫌いなのは知っていて、ほんの少しの食料を兄妹で取り合って殴られたりした話を聞いたことがあるくらいで、全然戦争から遠いところにいる家で生まれて育って、触れたのだって歴史の授業でくらいで、修学旅行は沖縄だったから当然ひめゆりの塔は行ったのですけれどじぶんごととして捉えられたかというと人生経験のなさから全然ピンときてなくて、それでも広島に船を見に行ったときに原爆ドームを見て心臓がぎゅっとなったし原爆ドームを背景に笑顔でピースしながら写真を撮ってる観光客の感情がまったく理解できなかったことはあるんですよ。
他人の考えていることなんか他の誰にもわからないし、だからこそ何を言わずにいるかの選択が重要になってくる人生というもののなかで物は言いよう大スペシャルをやるのが政治で、それは日常生活を地続きなので、どっかの知らん誰かは俺たちをどっかの知らんただの数として扱うことが容易に平易にできるのだから、そっちに世界が向かおうとするなら俺は全力で拳を振るうしかないな、物理的にじゃなくてそれ以外のすべての人道に則った方法で。
無知であることは、ああやってただ数えられるだけの存在になるのだ、という自戒を新たにしました。全然なんもまとまらないね。時間が必要だ。
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2023年5月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
日記:成果、出ているのでは?
なんとなく5月1日に普通に日記を書いて、そのことにしばらくしてから気がついて、「習慣づいているのでは?」と気がつきました。いま!?今だよ。習慣というのはもう意識することなく行われるものなので、これはもう習慣づいたのでは…………?誰だよ三日で習慣になるとか言ってた人間、かなりかかってますよ。個体差。
もうひとつなんとなくの変化として感じるのは文章を書くことへの心理的ハードルが下がったこと、何か物を言うときに「でも結局うまく言えないし」とならないこと、言葉選びが以前の標準値に戻りネットミームなどの簡単にニュアンスは伝わるが使われている言葉自体があまり良くないものを無意識に使わないようになったことなどです。良いんじゃない………?
とはいえ毎回タイトルはわからないし書くこともピンときていないし、書いたところで寝て起きたら「これ書く意味あった……?」になっているのは変わらないんですが。きっと来週あたりに体調不良で寝込んでまた泊まったりするんでしょうけど、ぼつぼつやっていきます。
なんとなく5月1日に普通に日記を書いて、そのことにしばらくしてから気がついて、「習慣づいているのでは?」と気がつきました。いま!?今だよ。習慣というのはもう意識することなく行われるものなので、これはもう習慣づいたのでは…………?誰だよ三日で習慣になるとか言ってた人間、かなりかかってますよ。個体差。
もうひとつなんとなくの変化として感じるのは文章を書くことへの心理的ハードルが下がったこと、何か物を言うときに「でも結局うまく言えないし」とならないこと、言葉選びが以前の標準値に戻りネットミームなどの簡単にニュアンスは伝わるが使われている言葉自体があまり良くないものを無意識に使わないようになったことなどです。良いんじゃない………?
とはいえ毎回タイトルはわからないし書くこともピンときていないし、書いたところで寝て起きたら「これ書く意味あった……?」になっているのは変わらないんですが。きっと来週あたりに体調不良で寝込んでまた泊まったりするんでしょうけど、ぼつぼつやっていきます。
2023年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
日記:三日坊主は阻止
三日目にしてすでに極大まで振り切ったネガティブが言い換えるすべてのポジティブ言い方選手権の発動の必要性を感じていますが、まあ何か別のことを書きます。
そもそも日記を朝に書いているので必然的に昨日あったことの振り返りか、前々から「これを書こう」と思っていたことについて書くのどちらかになる。この試みの根底は「定期的に自分の中のなんでもいいからなにかをある程度まとまった文章として出力する」の反復練習なので、題材はなんでもいいし、誰に読ませているつもりもないので適当に(これは本当に力を入れないという意味で)適当にやっていけばいいんだけれどもな。
いつだか読んだ梶井基次郎の文庫サイズの全集に納められていた「新しいノートをおろして書き始めたとき、一文字でも書き損じるともうそのノート一冊分を捨てたくなる。全部をだめにした気分になる」(要約)という一文がものすごく「ああ〜!!!!!」と膝を叩いた覚えがあって、その時からずっとこの何かをする前に感じている分厚いくせに定形ではなくて、もやもやとしているくせにやたらと強固な感覚、いわゆるハードルと呼ばれるような心理的な障壁を「それだなあ」と思って生きている。たぶんちくま文庫から出版されているやつだったと思う、というかそれしか持っていない記憶がある。
この一つでも仕損じたらもう全部がダメ、とその時点で放り出したくなる衝動は一種の完璧主義や潔癖からくるのだろうか。水回りに対してのあれと同じで。二日前の伏線を図らずも回収した。伏線だったのか………。
今週末の日曜日、全然いままで遠巻きに見ているしかなかったジャンルの二次創作イベントに行く予定なので、それへの緊張がじわじわ高まっているという仮説もある。基本的には臆病で、過剰反応気味に生きています。
楽しんでいこう。
三日目にしてすでに極大まで振り切ったネガティブが言い換えるすべてのポジティブ言い方選手権の発動の必要性を感じていますが、まあ何か別のことを書きます。
そもそも日記を朝に書いているので必然的に昨日あったことの振り返りか、前々から「これを書こう」と思っていたことについて書くのどちらかになる。この試みの根底は「定期的に自分の中のなんでもいいからなにかをある程度まとまった文章として出力する」の反復練習なので、題材はなんでもいいし、誰に読ませているつもりもないので適当に(これは本当に力を入れないという意味で)適当にやっていけばいいんだけれどもな。
いつだか読んだ梶井基次郎の文庫サイズの全集に納められていた「新しいノートをおろして書き始めたとき、一文字でも書き損じるともうそのノート一冊分を捨てたくなる。全部をだめにした気分になる」(要約)という一文がものすごく「ああ〜!!!!!」と膝を叩いた覚えがあって、その時からずっとこの何かをする前に感じている分厚いくせに定形ではなくて、もやもやとしているくせにやたらと強固な感覚、いわゆるハードルと呼ばれるような心理的な障壁を「それだなあ」と思って生きている。たぶんちくま文庫から出版されているやつだったと思う、というかそれしか持っていない記憶がある。
この一つでも仕損じたらもう全部がダメ、とその時点で放り出したくなる衝動は一種の完璧主義や潔癖からくるのだろうか。水回りに対してのあれと同じで。二日前の伏線を図らずも回収した。伏線だったのか………。
今週末の日曜日、全然いままで遠巻きに見ているしかなかったジャンルの二次創作イベントに行く予定なので、それへの緊張がじわじわ高まっているという仮説もある。基本的には臆病で、過剰反応気味に生きています。
楽しんでいこう。
ホラー映画だけど面白そうだったので観に行ったら案の定、大面白(おおおもしろ)だったので以下、すべてがネタバレの感想。
#映画感想
冒頭から他作品の話をして申し訳ないのですが、俺が以前ホラー映画の皮を被ったわくわく大乱闘怪獣映画「NOPE」を大絶賛していたのを覚えておいででしょうか。「NOPE」はわくわく大乱闘怪獣映画ではない、というツッコミも一旦同時に傍に置いておいてください。
信頼している映画人で作り上げたTLでちらほら好評なのを見てはいたのですが、いかんせんこの俺はあらゆる労働と同じくらいにホラーが嫌いです。苦手だし、嫌い。やだ。こわい。普通に嫌。衛生観が一生相入れない。怖いとかの前に汚いやろそれは。みたいになっちゃう。グロとゴアとの区別をつけんかい。痛いのは嫌なのは当たり前やろ生き物なんだから。みたいになっちゃう。とにかく苦手です。
なので「罪人たち」も面白そうだけど……ホラー映画…いやでも………と悩んでいたところに、「NOPE」と似たような種類の映画であるという情報が舞い込んできて、ならいけるか……!?と腹を括った次第でした。血の出方はどっちもどっちです。俺はホラー映画を血がいっぱい出るもんだと思っている?たぶんそう。苦手ゆえにあまり触れてこなかったので理解の浅さは許してください。
公式のアカウントだったかなにかで怪異が吸血鬼である、というのは事前情報で知っていたのですがいかんせん中盤結構まで吸血鬼要素が一個もなくて「おや……??」になっていたのですが、途中から急に出てくる。本当に急に吸血鬼が出てきて「お、おや……??」になり、最終的に大乱闘わくわく吸血鬼全部焼き映画になったので「おぉ………」って言ってました。大乱闘わくわく吸血鬼全部焼き映画ではないです。
アパルトヘイトが罷り通っている時代、綿農園で綿花を摘む指はすべて黒くて、虐げられていた時代。
わけもわからず連れてこられて、かろうじて生き延びた先祖たちが本当に拭けば飛ぶような細い炎を、しかして小さいながら確かな灯りをずっとずっと紡いできた黒人たちの中に根付いて息づく音楽というもの。
以前から「一番身近な音楽楽器は人間」(一人きりでも手を叩く、や、なにかを打ち付けるなどでリズムにはじまる最小単位の音楽を奏でられるため)と思い続けているんですが、連綿と続く音楽という中に込められたそのときそのときの背景を俺はまったく知らないにも程があるのだけれど、人間が会話をしてコミュニケーションを築く生き物である限りおそらく音、という手段についてはかなり万人にとって文字通り耳を傾けるきっかけになるわけで、そしてそれは苦しい状況にある中でのたしかな光であったわけで、そうでなければ現代に至るまで音楽の持つ力が続いているわけがないので。
苦しい状況にある人が、苦しいままでいろというのはまったく間違っているし、苦しい状況にある人がそれでも希望を失わないために行っているレクリエーション(ほとんど祈りの儀式だよそれは。そういう話もしていましたね)の場面だけを切り取って「彼ら彼女らは苦しんでいない」というのもまったく間違っていて、このあたりの構図は現代でもなんでも変わらないし、むしろSNSやショート動画などのインターフェイスや構造側が端的なもの、より端的なものを短絡的で瞬時の快感のために消費するスタイルになっているあたり、”いま”の俺たちの方がずっと毒されているので、改めて考えろよ、と言われているような気がしました。これは個人の感想なので「言われているような気がしました」で正しい。
そして「黒人が」音楽で食っていく、ということの、あの時代における残酷さ。
要するに「白人でも」「わかりやすい」「白人(おれ)たちを」「満足させる(気持ち良くしてくれる)」「音楽(何かしらのインターフェイスを持った消費しやすいなにか)」だから受け入れられたわけでしょ。文字通り「目をつぶっていても」心地よく、気持ちよく、不快にならず、演奏者のことやその音楽が生まれた背景に目を瞑っていても上っ面だけ享受して楽しんで咀嚼して吐き捨てるように消費できるものってことでしょ。
あるいは芸術方面のこと、というのは古来からインテリ層やインテリぶりたい層(けっして倫理観がしっかりしていたり、善人であったりするわけではない、ということが重要)に人気の、明確な一定の点数などがつけづらい個人の好みが大きくその評価に関わってくる分野のことだからそこそこ「大衆向け」を掴んでしまえばそれなりに需要と供給が成立する。
俺たちはずっと本当のところで「その個性(タレント)を、妨げるものか?肌の、色が?」を問い続けなければいけないし、なぜその肌の色が生来いなかったであろう大陸にいるのかを考え続けなければならないし、繰り返してはならない。ずっとその根本には抗っていかないといけないし、抗っていくには学ぶことをやめてはいけない。
そんで急なアイリッシュ音楽祭り、なに?!!?!! 吸血鬼になるとアイリッシュ音楽を習得できるんですか!?なに!?!なんで??!??!!!!!!めちゃくちゃいい声するやんけ、みんなから!!!!!!息ぴったりやんけ!!!!(これはカラクリがわかりますが)マジで生前かなり音痴だったりしてもああなれるんですか?!?!1なんで?!??!?!!!!
と思いつつ、アイリッシュ地方の移民たちのことは「片喰と黄金」で知っているので、彼ら彼女らもまたアメリカ大陸に移ってきてそこでなんやかやあったために、故郷のことを想う手段としての音楽を持ち合わせているのだな、とは思いました。なんか……なんか急にダンスしだすのちょっと面白かったですけど……………。
あと「吸血鬼は招かれていない家(場所)に入れない」と「にんにくや銀に弱い」をやるのに最後サミーのことをめちゃくちゃ水の中に追い詰めていて、最初あそこ川かと思っていたので「銀やら入れないやらはやるのに川は渡れるんかい!!!!!」(川だと思っていたので吸血鬼は入れないから実質勝利やんサミー!!!って思っていた)になったんですが、よく見たらとくに波が立っていたりはしなくて流れてないっぽいからあそこは湖とか溜池みたいな感じだったんですかね? もともと製造所だったようだし、水源地的な………?たぶんそう。吸血鬼招かれていない場所にいけないネタをずっとやってるの律儀でちょっと面白かったし、わたしはああいう境界線を越えられるかどうかで人間かどうかを試される要素が大好きなのでニコ………ってしていました。最後のバーのシーンも本当に良かったですね。
最初、吸血鬼とかホラー要素とか全然ないから「???」になっていたのだけれど、あれは最後の最後ですべてを失うための丁寧な伏線で、それでも残ったものの輝きを小さいながら確実に光らせるための丁寧な描写だったんだな………土地を移るということの大変さを、たいていの人間がその生まれや今現在で知っているからこその、それらが失われるることと、回想するたびに強くなっていくそのときどきの情景が美しかったことなどがまざまざと伝わってくる。
無知なころは差別……よくわからん……になっていたのだけれど、最近(一応年月で言えば数年以上経ってるけど、あまりにそうでなかった頃が長いので最近と短めに言っています)ようやくいろいろなことを見聞きしてそこから学ぶ、ということが曲がりなりにも形になってきつつあるのであの映画の時代背景を考えるとすべてがクソなのですが、「そうしなければならなかった」のか?本当に?という問いと、それはそれとして差別は全部クソ、という確信は両立するので、ずっとそうやってこれからも考えることをやめたくないな、と思う映画でした。
奪われたものを取り戻すとかではない、でも地に足ついていま持ってるものを「これ以上」奪わせないっていう、「これ以上」なんだよ……そこにしがみつく人間の……人間の……でっけぇ愛……俺はなんでもでっけぇ愛って言いがちですけど……魂のはなし…………。そしてサミーのように「そうせざるを得ない」ほどの魂と密接に関わるなにかを持って産まれる人間は確かにいて、その人間に対してそれを手放せというのはお前の魂を自らで殺せと言っているのと同義で、選ぶことには困難が伴い、時にはまったく別の離別を必要とするが、それでも選んだものを、ずっと手放してはいけない。そういう話だった。 いえ、あの、時代背景を加味したいろいろと言いたいことはめちゃくちゃあるのですが(先日「アファーマティブ・アクション 平等への切り札か、逆差別か」(南川文里 著)を読み終えたところだったのでその辺もスッと入ってきやすく、キツです………にはなっていたのですが………。
サミーが最後、ギターを手放すかどうかのところで「やめろ〜〜!!!!!!そのままいけ〜〜〜ッッッッおまえのオールを他人に任せるな!!!!!!!!!(中島みゆきが好きです)サミーーーーーーッッッッッ!!!!いけ〜〜〜ッッ差せ〜〜〜〜!!!!!!」って競馬でも見てるんですか?みたいな応援しちゃったもんな。そのあとサミーがギターのヘッドだけ持って車運転してて泣いちゃった。それでいいんだ……と俺は安易に言えないけど………!!!!! そして最後の最後にさあ!!!!!あのとき殺しきれなかった吸血鬼になった二人がさあ!!!!サミーのことをさ……でもちゃんと約束守るんだよな………時代に適応して生きているし、多分その辺の人間のことは趣味で殺したり仲間にしたりしてるんだろうけど………。
あの吸血鬼たちは感覚や記憶を共有しているってことは、たぶんあの最初のアイルランド吸血鬼たちに噛まれて吸血鬼になったときに彼ら彼女らの記憶や感覚も共有していて、おそらく移民というところで(自発的な移民か奴隷として連れてこられたかの違いはあれど)共感(共鳴?共振?)はあったのかな、故郷を想う気持ちの部分はどこからどこへ移動したって続くものな、ある程度は、という気がしている。
彼ら彼女らの魂はあそこで燃えてそれで終わりなのだろうか。もう消えてしまったんだろうか。白人を容赦なく殺し、同胞だって容赦なく殺したスモークが最後に見たあの景色は天国だったんですか?あるいは取り戻したと思ったアニーと自らの子を再度失って地獄に行くのだろうか。それがスモークの罪なんだろうか。
タイトルもキャラビジュアルも「WE ARE ALL SINNERS」で、そう、彼ら彼女らはみんな罪人なのだ。
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