散る散る満ちる。

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2023年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

日記:とことこ鎌倉
なにやら父が急な連休を手に入れたとのことで、両親が横浜に遊びに来ていたので一緒に鎌倉観光へ行きました、という話です。珍しくちゃんとした、この場合のちゃんとしたと言うのは世間一般で言うところのその日あったできごとを記すと言う意味での日記を書ける気がする。

最近はもうずっと職場と家の往復、行ってみなとみらいか「宗谷」か、「宗谷」もだいぶ行っていないし防基も全然行っていないし、改装工事が終わった横浜みなと博物館だってなんとなくぼんやり行かないままでいて、あのへんになんだか忌避感があって、それは間違いなく己だけが抱えている何がしかの罪悪感とかそういうものに根差しているのだけはうっすらと知っていて、でも見ないふりをしていた。

疲れていないし、疲れたら休んでいるし、休みの日は一日家にいて自分を労っているし、仕事でむしゃくしゃしたり嫌なことがあってもTwitterや最近ではMisskeyにいけば誰かしらが楽しかったり嬉しかったりしていて、好きなものについて話していて、あいかわらず政治には怒りがあって、正しいことを心掛けている人たちが可視化されているから、勝手に受け取って自分でいいように解釈して都合の良い世界にたゆたっていると思っていた。

でもそれはもう今までのルーティンからはみ出すのがただ怖くて、駅から自宅までの道を変えるのが怖いのと一緒で、目的地には着くのにその道中になにがあるかわからないからという未知への恐怖だけでできていて、見て見ぬふりというのが一番正しい、そういう日常を続けていくことでしか安心していなかった。

神社仏閣はずっと好きで、なんでか理由はあったりなかったりするけれど、基本的にはあの境内という結界の中の空気や雰囲気が好きで、他者への敬意とか万物への敬意とか、そういう善たろうとする部分が好きなのもあれば、とにかくちっぽけで醜くて浅ましくて不安定な己でいることを許されているから好きだ、という一面もあるんだなと気づいた。

祈りとは救いを求めることでもあって、救いを求める根底には欲があって、仏はそういうしがらみから救ってくれる存在で、信仰そのものに良いも悪いもないけれど例えば少し良いことがあったときに感謝できる理由になる、悪いことがあったとき冷静になれるきっかけになるかもしれない、そういう「こう在っていい」(在ることができたひとたちがいる)という絶対の安心感、指標でもある。

昔の人はいまと違ってそれはもう限られた技術の中で知恵と工夫で乗り切って生き延びて、というのは想像に難くないけれどその中で仏像や寺の建立や天井画や装飾、名前が残ったり残らなかったり歴史に残ったり残らなかったりする、そういうところを全部「残ろうとして」やっていないところがすごく良くて、ただ祈りのためにやっていること、その真っ直ぐさが溢れているからきっと好きなんだろうな。

そこにもう仏という指標が確固としてあるから、いま己はここでただちっぽけで迷っていて不安定で不安で臆病で震えていて泣いてもいい、無関心にも見えるほど大きい許しの中に確かにいるのだとわかること。これも祈りと救いの一端なんだろうな、というのが珍しくわかった日でした。救われたいという欲から逃げられないから、俺たちは仏じゃないんだなという納得感を今までで一番得た。

視野が広がる、とか視野が狭まっていたな、というのがよくわかりました。やはりスマホやらパソコンやらの画面だけ見ていてはいけないなあ。

天気も良くて風が心地良くて想像していたより人間がいなかったのも個人的には助かっていた。鎌倉駅周辺や鶴岡八幡宮などの大御所も大御所を避けていたのもあるかもしれない。

こういう己の何か魂に近い部分の息抜きができる場所、見つけて大事にしていきたい。

つらつら

日記:くるくるといく
ついにイベント当日、行って帰ってきました。

いつも行っているような企業が主催の大きめなイベントとは違って、いわゆる小・中規模にあたるイベントだったので会場も初めてのところであればサークル参加手続きも初めての手法であったりとなかなか楽しく緊張して帰ってきて疲れています。部屋が寒い。

どうしてもイベント振り返りになると思うので積極的に振り返っていきます。まず荷物。

ポスタースタンドや本を立てる木製の組み立てスタンド、いつもの一次創作だと本の種類が多いのでそれぞれ二つずつ用意しておくんですが、今回は本・ペーパー・お配りする無配のグッズすべてが一種類ずつだったので圧倒的に持て余しました。

ペーパーのように最悪、余った分を会場で破棄できるものならともかく、今回はゴミ持ち帰りだったこともあって持って行った本が半分減って、買った本がそれ以上増えたという実質荷物増で帰ってきたのでおつらかったですわ。急なお嬢様ログイン。

あと二次創作ジャンルだったのでひとさまにはちょっとやそっとじゃ聞かせられない個人の信条の話とかあるんですけどそれはそれで見えないところでやりますわ〜!!!!!!急なお嬢様ログインは書いている途中でMisskeyを見に行ったからです。

ごめんあそばせ。

つらつら

日記:やうやうやっている
シンプルに習慣化されていないので平気で日記を忘れます。誰だ、三日続ければ習慣になるとか言っていたひとたち。主語が全人類の全個体じゃないから許されている感じがある。これは単に難癖つけているさまです。

難癖をつけつつ、なんとなく「そういえば書かないとな」と意識する風にはなってきているし、少しずつであれタイピングしているときの指の軽さが戻ってきているので効果はあるのだと思います。

明日はここ一ヶ月以上ずっと取り組んでいた二位創作イベントの本番で、もう携帯だけ持って出れば問題ないように荷造りも済んでいるんですが、TLを眺めていると前夜祭の雰囲気でどうにも取り残されているような、自分の足元は大丈夫だという確信のような、なんともいえない感情がぼんやりとあります。

なんとも言えない感情といえば昨日、頭痛のなりかけの気配とよく呼んでいるあの痛みの前駆症状(と、おそらく医学ではいうはずだ)はどうにも誰にも説明できる気がしないなあ、と思ったのでした。今日の日記ですますだな?語尾も統一する気がない、気まぐれで人生をやらせていただいております。

頭痛と一口に言ってもその痛みの種類と感じ方と表現は千差万別もいいところだろうし、己の場合は脳全体がじんわりと薄く(痛みにも薄さや深さがある)痛みの一歩前、ストレッチとか運動のときに「これ以上やったらだめだ」と感じるあの感覚で察することができるタイプのなにかを抱えるのだけど、これも全然他者に伝わる気がしない。

こういうとき、感情や感覚をそのまま相手の脳みそに転送できたらいいのだろうなと思うけれどたぶんそれをやると大変なことになるのできっとならないんだろうな。

細かすぎてどうでもいいところ、サイトデザインをちょっといじりました。

つらつら

日記:なかなかならない
相変わらず気圧に負けて頭が痛いながらイベントの差し入れの買い出しとか行っていました。けっこう負けがちでした。

それはそれとして(話の転換に”それはそれとして”を使いすぎ問題)日曜日にあるイベントに持っていく本が届いたので「やっぱり本を作るの良いな……」と思いました。今回の場合は全部Web再録を物理的に本にするという作業工程の少なさお気楽本なのであの原稿の苦しみはそんなにないのだけど、楽して本を出したいなら日常的に創作をしているのが一番、という身も蓋もない結論が見えてきており………はい。

いよいよTwitterの綻びが目につく回数が段階的に増えてきて包み隠さないと真剣に「やべ〜んだろうな」と思っているし、中の人たちが一番割りを食ってるんだろうな…となり、できるだけたくさんのお給料をもらって欲しいこのごろです。

とはいえ最近は「前のTwitterにもどって!」みたいな子供じみたわがままから「おっ、いいぞいいぞ、どこまでも一緒にいてやるぞ。地獄に行こうな」と前向きに一緒に沈む気持ちでいます。やめろ。沈むな。

フォロワーさんと以前からたびたび「ふねの擬人化をやっているし創作をやっているが、ふね沈みがち問題がある。沈むな」という話をしているのを思い出す。沈むな。

ふねもそうだけれど飛行機とかすべての目的があって造られた無機物たちはその役目を全うしてから真っ当に解体されて欲しい。ふねの解体も全然環境や人員に配慮されていないまま適当に解体されてはい終わり、になることが多いのも勝手に悲しいし、今後も生きていくこの天体のことを考えたときにコストばかり気にかけてそれ以外に目を向けない人間は愚か……と短絡的に断じてしまうね。仮想敵を作るな。

この「仮想敵を作るな」は己のメンタル指標のひとつであるので、気が向いたらこれも語る要素の一つにしておきます。

つらつら

日記:ろくろく寝ていない
朝から偏頭痛がすごくて倒れながら生きていたので時間がないまま書いている。パソコンに限らず文章を書けてアップロードできるというのは文明の利器なのでありがたいことだ。

昨日も本当のことを言うと大半が寝不足と偏頭痛に倒れ伏していたので書くことがほとんどなくて、日常の行動を書くつもりがそこまでないから早くもネタ切れの様相。選手権の開催は最後まで取っておきたい。

出来事としては髪を切って期日前投票に行った。投票会場がなんだか赤子たちの四ヶ月検診の会場と近くて、やたらとふわふわしたいのちたちがたくさんいた。みんなこんな薄暗い建物の中で平気なのだなぁ、と見当違いの感心をする。四ヶ月ともなるとある程度は度胸がつくのか、それとも親がいるから安心なのか、みんな落ち着いたところを見計らってきているのか、そのいくらかをすべてなのか。

結構すぐに頭が痛いことをTwitterなりに投稿してしまうのは単に頭痛記録のためであってあれをやれているときはわりかし元気なのだけど、症状があるのは事実なので他人からしたら心配だけどさせるよな…とはわかっていてやっています。気にしないでください。

つらつら

日記:ごろごろの
日記を書いているのに更新を自動的にTwitterに投稿してくれるプラグインが働いているんだかいないんだか、まで書いて、そうだったわそれをやってる連携先のSocialDogさんがAPI関連のアレでそれしてたんだわ、まで思い出しました。

昨日はほぼずっと一日中頭痛と戦ってやや負けていたので、負けていた。

偏頭痛は物心ついた時からずっと一緒にいる、できれば一緒にいたくはないやつなのだけれど、まあ生まれ持ってしまったものだから対処療法で対処対処としていこう、という諦めがよくないのかもしれない。とはいえ一朝一夕に同行できるものでないなら一旦は対処にとどまるのは確かな一歩。

とはいえ日中ほぼずっと眠っていたからか、夜間の就寝が全然できなくて睡眠時間五時間とかである。眠い。ひたすら。非常に。数字で見たら絶対意識してしまうからApple Watchの睡眠アプリ見ないようにしていたんだけど、どうしても気になったから見てしまったら五時間とか出てきた。思わず笑った。

期日前投票してきたので全部がいいことにする。

話と関係ないようなことを言うと、母方の祖母が「ねむる」と書くとき「眠むる」と書くの、結構好き。

つらつら

日記:うろうろの
すでにタイトルをどうしようかの悩みが尽きないこのごろです。四日目。

居住環境についてたびたび悩むことが多いのですけれど、このへんの衣食住でいう「住」の部分はもうお金に物を言わせて頬を札束叩くが結論として出続けているので、非課税の三億円がとりいそぎ合法的に手に入る必要があるなあと毎度寒くて薄暗い部屋で結論を出します。

なにも広大な敷地にあえて小さい家を建ててそこに暮らしたいとか言っているわけではなくて、ただ満足のできる本棚(蔵書のすべてが収納でき、また日当たりなども考慮された静かで適度に乾燥した空間)と、自宅に引きこもっていても健康が損なわれないような運動ができるだけの設備と、自炊と呼べる範囲ではないにせよ少しばかりいまより動きやすい水回りがあればいい、と謙虚に見せかけてものすごく高い要求を己の願望として記しておきます。

本来の意味での日記、その日あったことを振り返る意味での記録に向いていない自覚はずっとあって、用事がないとどんなに親しい間柄どうしでも連絡を一切しないという生粋の性質に基づいているというのは自覚している。

だからいつも思いついたことについて書く、という行動の振り返りじゃないやつになるんだよな………類語辞典はまだ引いてません。

つらつら

日記:三日坊主は阻止
三日目にしてすでに極大まで振り切ったネガティブが言い換えるすべてのポジティブ言い方選手権の発動の必要性を感じていますが、まあ何か別のことを書きます。

そもそも日記を朝に書いているので必然的に昨日あったことの振り返りか、前々から「これを書こう」と思っていたことについて書くのどちらかになる。この試みの根底は「定期的に自分の中のなんでもいいからなにかをある程度まとまった文章として出力する」の反復練習なので、題材はなんでもいいし、誰に読ませているつもりもないので適当に(これは本当に力を入れないという意味で)適当にやっていけばいいんだけれどもな。

いつだか読んだ梶井基次郎の文庫サイズの全集に納められていた「新しいノートをおろして書き始めたとき、一文字でも書き損じるともうそのノート一冊分を捨てたくなる。全部をだめにした気分になる」(要約)という一文がものすごく「ああ〜!!!!!」と膝を叩いた覚えがあって、その時からずっとこの何かをする前に感じている分厚いくせに定形ではなくて、もやもやとしているくせにやたらと強固な感覚、いわゆるハードルと呼ばれるような心理的な障壁を「それだなあ」と思って生きている。たぶんちくま文庫から出版されているやつだったと思う、というかそれしか持っていない記憶がある。

この一つでも仕損じたらもう全部がダメ、とその時点で放り出したくなる衝動は一種の完璧主義や潔癖からくるのだろうか。水回りに対してのあれと同じで。二日前の伏線を図らずも回収した。伏線だったのか………。

今週末の日曜日、全然いままで遠巻きに見ているしかなかったジャンルの二次創作イベントに行く予定なので、それへの緊張がじわじわ高まっているという仮説もある。基本的には臆病で、過剰反応気味に生きています。

楽しんでいこう。

つらつら

日記:困りのこと
昨日の日記を読み返して思ったことなのだけれど、文章の一言目の後に必ず読点(「、」)が入るのはたぶん文章の癖なんだな……。この癖が良い方向にいくのか悪い方向に行くのかは己の捉え方次第なので現状は一旦放置。

Misskey.designというSNSにアカウントを登録だけはした。ほんの少し呟いてはみた。リアクション、いいなと思った。

本来は己も己のペースでのんびりと発信を行ったり、通りすがりにリアクションしたりと楽しむものなのだろうけれども、個人的な使い方は作業用BGM。もっと正確に言えば「誰か人間の存在気配は感じたいけれど決して会話したり何かを眺めたりするのではなく己の作業に没頭したい時の気配だけが得られる」である。

図書館のように静謐が厳に求められたりせず、自分は自分のやりたいように音楽を聞いたり叫んだり(間違って下書きレイヤーにペン入れしていた時など)しつつ、全然無関係かつベクトルは同じ人間たちの気配だけがある状態、現時点最高。ただしときおり、これを書いている今現在がちょっと境界線上だけど、人間の気配すら近寄りたくない時というものがあるので、やや様子見。

日記を書くときいつも題材に困る。困り続けることがアンテナの感度チューニングなので、困ればいいと思う。生活に支障の出ない範囲で。どうしようもなくなったら書かなくなるか、極大まで振り切ったネガティブが言い換えるすべてのポジティブ言い方選手権とかをやります。

つらつら

日記
以前、フォロワーさんとイベントで「日記を書くか」という話をした。答えは「書かない」だった。

この魂を生きて数十年、自分の継続のできなさについては一家言持ちである。とはいえ最近、いわゆる長文にあたる量の文章を出力していないこと、伴って言葉の扱いがたいへん粗雑になってきている自覚もあるため一応、のんびりとやることを前提に日記を書くことにする。

一ヶ月毎日noteを更新していた時もあるので、まあなんとかなるやろ……の気持ちです。ほらまた文章と言葉が雑になる。よくない。

いっときから、意識して「めちゃくちゃ」という単語を乱用している自覚がある。なぜ意識しているかと言うと、「ちゃ」という音が水音っぽくて苦手だからだ。苦手を克服しよう、と言う誰にもわからない試みの一つである。

個人的すぎるうえに感覚の説明がしづらいものの一つに、水回りへの謎の潔癖がある。小学校低学年時にスイミングスクールへ通っていたことがあるが、プールサイドのタイルがどうしてもどうしても素足で踏めず、毎回毛がふわふわ生えてうぞうぞと動く毛虫の背中を踏む、みたいな感覚で絶望しながら腰を下ろしていた。あの感覚、いま文にしたらまざまざと蘇ったので本当に無理なのであろう。文字通り虫唾が走るってあれかもしれない。

「ちゃ」の音とそれが、シナプスのご近所なのだ。ちょっとだけうぞ、とする。「ぺちゃくちゃ」とかもやや苦手。どうして言語の音と水回りへの謎の潔癖が繋がるのかわからないけれど、比較的長い間あえて使ってみて「やっぱり苦手だ」という結論に達したので、そろそろ類語辞典を引いて類語を当てていこうと思う。辛い。

日記を書く、に代表される「なにかを文章として出力する」行為、確実に自分のアンテナが無意識化で広がるのでたまのメンテナンスとしてやってみる必要があるなあとは思います。

つらつら