2023年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
日記:三日坊主は阻止
三日目にしてすでに極大まで振り切ったネガティブが言い換えるすべてのポジティブ言い方選手権の発動の必要性を感じていますが、まあ何か別のことを書きます。
そもそも日記を朝に書いているので必然的に昨日あったことの振り返りか、前々から「これを書こう」と思っていたことについて書くのどちらかになる。この試みの根底は「定期的に自分の中のなんでもいいからなにかをある程度まとまった文章として出力する」の反復練習なので、題材はなんでもいいし、誰に読ませているつもりもないので適当に(これは本当に力を入れないという意味で)適当にやっていけばいいんだけれどもな。
いつだか読んだ梶井基次郎の文庫サイズの全集に納められていた「新しいノートをおろして書き始めたとき、一文字でも書き損じるともうそのノート一冊分を捨てたくなる。全部をだめにした気分になる」(要約)という一文がものすごく「ああ〜!!!!!」と膝を叩いた覚えがあって、その時からずっとこの何かをする前に感じている分厚いくせに定形ではなくて、もやもやとしているくせにやたらと強固な感覚、いわゆるハードルと呼ばれるような心理的な障壁を「それだなあ」と思って生きている。たぶんちくま文庫から出版されているやつだったと思う、というかそれしか持っていない記憶がある。
この一つでも仕損じたらもう全部がダメ、とその時点で放り出したくなる衝動は一種の完璧主義や潔癖からくるのだろうか。水回りに対してのあれと同じで。二日前の伏線を図らずも回収した。伏線だったのか………。
今週末の日曜日、全然いままで遠巻きに見ているしかなかったジャンルの二次創作イベントに行く予定なので、それへの緊張がじわじわ高まっているという仮説もある。基本的には臆病で、過剰反応気味に生きています。
楽しんでいこう。
三日目にしてすでに極大まで振り切ったネガティブが言い換えるすべてのポジティブ言い方選手権の発動の必要性を感じていますが、まあ何か別のことを書きます。
そもそも日記を朝に書いているので必然的に昨日あったことの振り返りか、前々から「これを書こう」と思っていたことについて書くのどちらかになる。この試みの根底は「定期的に自分の中のなんでもいいからなにかをある程度まとまった文章として出力する」の反復練習なので、題材はなんでもいいし、誰に読ませているつもりもないので適当に(これは本当に力を入れないという意味で)適当にやっていけばいいんだけれどもな。
いつだか読んだ梶井基次郎の文庫サイズの全集に納められていた「新しいノートをおろして書き始めたとき、一文字でも書き損じるともうそのノート一冊分を捨てたくなる。全部をだめにした気分になる」(要約)という一文がものすごく「ああ〜!!!!!」と膝を叩いた覚えがあって、その時からずっとこの何かをする前に感じている分厚いくせに定形ではなくて、もやもやとしているくせにやたらと強固な感覚、いわゆるハードルと呼ばれるような心理的な障壁を「それだなあ」と思って生きている。たぶんちくま文庫から出版されているやつだったと思う、というかそれしか持っていない記憶がある。
この一つでも仕損じたらもう全部がダメ、とその時点で放り出したくなる衝動は一種の完璧主義や潔癖からくるのだろうか。水回りに対してのあれと同じで。二日前の伏線を図らずも回収した。伏線だったのか………。
今週末の日曜日、全然いままで遠巻きに見ているしかなかったジャンルの二次創作イベントに行く予定なので、それへの緊張がじわじわ高まっているという仮説もある。基本的には臆病で、過剰反応気味に生きています。
楽しんでいこう。
日記:困りのこと
昨日の日記を読み返して思ったことなのだけれど、文章の一言目の後に必ず読点(「、」)が入るのはたぶん文章の癖なんだな……。この癖が良い方向にいくのか悪い方向に行くのかは己の捉え方次第なので現状は一旦放置。
Misskey.designというSNSにアカウントを登録だけはした。ほんの少し呟いてはみた。リアクション、いいなと思った。
本来は己も己のペースでのんびりと発信を行ったり、通りすがりにリアクションしたりと楽しむものなのだろうけれども、個人的な使い方は作業用BGM。もっと正確に言えば「誰か人間の存在気配は感じたいけれど決して会話したり何かを眺めたりするのではなく己の作業に没頭したい時の気配だけが得られる」である。
図書館のように静謐が厳に求められたりせず、自分は自分のやりたいように音楽を聞いたり叫んだり(間違って下書きレイヤーにペン入れしていた時など)しつつ、全然無関係かつベクトルは同じ人間たちの気配だけがある状態、現時点最高。ただしときおり、これを書いている今現在がちょっと境界線上だけど、人間の気配すら近寄りたくない時というものがあるので、やや様子見。
日記を書くときいつも題材に困る。困り続けることがアンテナの感度チューニングなので、困ればいいと思う。生活に支障の出ない範囲で。どうしようもなくなったら書かなくなるか、極大まで振り切ったネガティブが言い換えるすべてのポジティブ言い方選手権とかをやります。
昨日の日記を読み返して思ったことなのだけれど、文章の一言目の後に必ず読点(「、」)が入るのはたぶん文章の癖なんだな……。この癖が良い方向にいくのか悪い方向に行くのかは己の捉え方次第なので現状は一旦放置。
Misskey.designというSNSにアカウントを登録だけはした。ほんの少し呟いてはみた。リアクション、いいなと思った。
本来は己も己のペースでのんびりと発信を行ったり、通りすがりにリアクションしたりと楽しむものなのだろうけれども、個人的な使い方は作業用BGM。もっと正確に言えば「誰か人間の存在気配は感じたいけれど決して会話したり何かを眺めたりするのではなく己の作業に没頭したい時の気配だけが得られる」である。
図書館のように静謐が厳に求められたりせず、自分は自分のやりたいように音楽を聞いたり叫んだり(間違って下書きレイヤーにペン入れしていた時など)しつつ、全然無関係かつベクトルは同じ人間たちの気配だけがある状態、現時点最高。ただしときおり、これを書いている今現在がちょっと境界線上だけど、人間の気配すら近寄りたくない時というものがあるので、やや様子見。
日記を書くときいつも題材に困る。困り続けることがアンテナの感度チューニングなので、困ればいいと思う。生活に支障の出ない範囲で。どうしようもなくなったら書かなくなるか、極大まで振り切ったネガティブが言い換えるすべてのポジティブ言い方選手権とかをやります。
日記
以前、フォロワーさんとイベントで「日記を書くか」という話をした。答えは「書かない」だった。
この魂を生きて数十年、自分の継続のできなさについては一家言持ちである。とはいえ最近、いわゆる長文にあたる量の文章を出力していないこと、伴って言葉の扱いがたいへん粗雑になってきている自覚もあるため一応、のんびりとやることを前提に日記を書くことにする。
一ヶ月毎日noteを更新していた時もあるので、まあなんとかなるやろ……の気持ちです。ほらまた文章と言葉が雑になる。よくない。
いっときから、意識して「めちゃくちゃ」という単語を乱用している自覚がある。なぜ意識しているかと言うと、「ちゃ」という音が水音っぽくて苦手だからだ。苦手を克服しよう、と言う誰にもわからない試みの一つである。
個人的すぎるうえに感覚の説明がしづらいものの一つに、水回りへの謎の潔癖がある。小学校低学年時にスイミングスクールへ通っていたことがあるが、プールサイドのタイルがどうしてもどうしても素足で踏めず、毎回毛がふわふわ生えてうぞうぞと動く毛虫の背中を踏む、みたいな感覚で絶望しながら腰を下ろしていた。あの感覚、いま文にしたらまざまざと蘇ったので本当に無理なのであろう。文字通り虫唾が走るってあれかもしれない。
「ちゃ」の音とそれが、シナプスのご近所なのだ。ちょっとだけうぞ、とする。「ぺちゃくちゃ」とかもやや苦手。どうして言語の音と水回りへの謎の潔癖が繋がるのかわからないけれど、比較的長い間あえて使ってみて「やっぱり苦手だ」という結論に達したので、そろそろ類語辞典を引いて類語を当てていこうと思う。辛い。
日記を書く、に代表される「なにかを文章として出力する」行為、確実に自分のアンテナが無意識化で広がるのでたまのメンテナンスとしてやってみる必要があるなあとは思います。
以前、フォロワーさんとイベントで「日記を書くか」という話をした。答えは「書かない」だった。
この魂を生きて数十年、自分の継続のできなさについては一家言持ちである。とはいえ最近、いわゆる長文にあたる量の文章を出力していないこと、伴って言葉の扱いがたいへん粗雑になってきている自覚もあるため一応、のんびりとやることを前提に日記を書くことにする。
一ヶ月毎日noteを更新していた時もあるので、まあなんとかなるやろ……の気持ちです。ほらまた文章と言葉が雑になる。よくない。
いっときから、意識して「めちゃくちゃ」という単語を乱用している自覚がある。なぜ意識しているかと言うと、「ちゃ」という音が水音っぽくて苦手だからだ。苦手を克服しよう、と言う誰にもわからない試みの一つである。
個人的すぎるうえに感覚の説明がしづらいものの一つに、水回りへの謎の潔癖がある。小学校低学年時にスイミングスクールへ通っていたことがあるが、プールサイドのタイルがどうしてもどうしても素足で踏めず、毎回毛がふわふわ生えてうぞうぞと動く毛虫の背中を踏む、みたいな感覚で絶望しながら腰を下ろしていた。あの感覚、いま文にしたらまざまざと蘇ったので本当に無理なのであろう。文字通り虫唾が走るってあれかもしれない。
「ちゃ」の音とそれが、シナプスのご近所なのだ。ちょっとだけうぞ、とする。「ぺちゃくちゃ」とかもやや苦手。どうして言語の音と水回りへの謎の潔癖が繋がるのかわからないけれど、比較的長い間あえて使ってみて「やっぱり苦手だ」という結論に達したので、そろそろ類語辞典を引いて類語を当てていこうと思う。辛い。
日記を書く、に代表される「なにかを文章として出力する」行為、確実に自分のアンテナが無意識化で広がるのでたまのメンテナンスとしてやってみる必要があるなあとは思います。
すでにタイトルをどうしようかの悩みが尽きないこのごろです。四日目。
居住環境についてたびたび悩むことが多いのですけれど、このへんの衣食住でいう「住」の部分はもうお金に物を言わせて頬を札束叩くが結論として出続けているので、非課税の三億円がとりいそぎ合法的に手に入る必要があるなあと毎度寒くて薄暗い部屋で結論を出します。
なにも広大な敷地にあえて小さい家を建ててそこに暮らしたいとか言っているわけではなくて、ただ満足のできる本棚(蔵書のすべてが収納でき、また日当たりなども考慮された静かで適度に乾燥した空間)と、自宅に引きこもっていても健康が損なわれないような運動ができるだけの設備と、自炊と呼べる範囲ではないにせよ少しばかりいまより動きやすい水回りがあればいい、と謙虚に見せかけてものすごく高い要求を己の願望として記しておきます。
本来の意味での日記、その日あったことを振り返る意味での記録に向いていない自覚はずっとあって、用事がないとどんなに親しい間柄どうしでも連絡を一切しないという生粋の性質に基づいているというのは自覚している。
だからいつも思いついたことについて書く、という行動の振り返りじゃないやつになるんだよな………類語辞典はまだ引いてません。