散る散る満ちる。

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タグ「郵便屋さんの話」を含む投稿2件]

創作:ある日の拾得物係。
鵠止(くぐどめ)一人(いちひと):同行事務員。ヘタレ。
いろは:配達員。仕事中毒。西暦の陸軍制服準拠。
萩荻(はぎおぎ)主任:拾得物係主任。
七駆(しちかけ)ほへと:集荷担当。馬鹿。西暦の海軍制服準拠。一人のことは「一人(いちひ)っちゃん」呼び。
冬来(ふゆき)夏克(かつか):自称世界の終わらせ担当。ふゆがきてなつにかつ。
内墨(うちすみ):おまじない。/空座(からざ):からっぽ卵。/裏綴(うらつづり):やばいものたち図鑑。
人不成(ひとならず)人非(ひとあらず)人不足(ひとたらず)と合わせて三途(さんず)の一角。やばいものたち。
#郵便屋さんの話

誰がいったか煉瓦の軍艦、丸屋根吹き抜け見事な天井、今日も主任の声が飛ぶ。
「なァんで今日に限って空座(からざ)京葉(けいよう)なんだ!」
「そういう年間計画を立てたのが萩荻(はぎおぎ)主任だからですよ!」
右から飛んできた瓦礫を左で掴む電話で粉砕して、中空に放られていた受話器の根元を一気にたぐる。
放物を中断された受話器の向こうはまるで我関せずの平静で生意気なことを続けて言った。
「ですから帰還しようにも丸の内通用門が閉鎖されているせいで我々が締め出されている状況についての説明と事態の鎮静を求めているだけです」
「あんねえ、いろはくん!」
叫ぶ口元、面布が揺れる。結わいた髪も爆風に揺れる。首紐の先がちゃらりと軽い音を立てた。遠くの方で部下がばたばた死んでいく。
「こちとら二級の封が外れてそれどころじゃねえの!まだ一人くんに内墨(うちすみ)効いてるんでしょ!?空座が京葉で保守点検してっから八重洲の地下から入ってこい!」
「一人さんの内墨は諸事情で効力無効です」
「ほん?!」
「主任!緊急収容手順の五番まで完了です!!」
右から左から喧しいことだ。背後の崩壊はなかったことにする。
どうしてこうなったのかはよくわかっているので反省は後にとっておくとして、ともかく目の前には事象が二つ。
解き放たれてしまった収容手順が複雑な人不成(ひとならず)と、帰ってきた仕事中毒。局に帰るまでが仕事だとあいつに教えたのは誰だった。にやけた馬鹿の顔が一人だけ浮かぶ。あいつだあの馬鹿、今度こそは容赦しない。七駆(しちかけ)の御曹司としてもだ。
「集荷部隊はまだ戻らねえのか!」
「帰ってきててもほへとさんだけですよ!」
「今は馬鹿でも手伝わせろ!」
「お、呼んだー?」
へらりと笑って目の前に飛び出してきた異物を事も無げに排除して、そのまま頭上に迫る鋭利な針状の飛来物をなぎ払い、空間一帯の安全を突如として確保した白詰襟の男が言った。お出まし世紀の一大事、仕事中毒に油を注ぐ史上最高の馬鹿。
「あんねー萩荻ちゃん、俺またおもしれえもん拾ってきたからあとで種別よろしくね」
「ばっかじゃねえのこの状況よく見ろよ!」
等級にして実に裏綴(うらつづり)第二級、簡単に言えば面倒臭い代物、通常の収容手順では害しかないようなもの、人に生まれようとして、そうなれなかった『ひとならず』。生まれついての、人でないもの。
名を与えてはならず、名を書いてはならず、目を見せてはいけない。受容器官を抉り、末端四肢を削ぎ、中央思考に干渉していたはずなのに。
「とりあえず被害はなんでもいい!とにかく空座持ってこい!道なら俺が開ける!」
「ひゅう、萩荻ちゃんかっこいい」
吹けもしない口笛がわりにきちんと口でそう言って、七駆ほへとはへらりと笑う。
「ねえ萩荻ちゃん、俺あれ殺いでこようか」
「おおそうしてくれそうしてくれ、空座が間に合うまでに少しでも抑えられりゃそれでいい」
「任せてよ。お代は薄荷塔(はっかとう)のつけ麺ね」
「”つけ”だけにってか」
「ないわー」
不定形の巨体を持て余すように高いはずの天井まで届くほど手足に似た四肢を、ひたすら数限りなく伸ばし尽くして天井に穴を開けようと試みる異物の五本指は、だからあと一歩届くことなく全て一度に床まで落ちた。
咆哮も断末魔もなく、ただ静かにその衝撃を無音の振動に乗せて空間を揺らす。喧しいのは崩された柱や壁の落ちる音。
一見すれば粉でも練って好き勝手、造形を始める前の遊戯のようだ。乳白色が美しく、全体像は醜いその異物を前にしてすら、白詰襟の眩しさはひときわ陽光に際立って閃いた。
「俺の庁舎壊すんじゃねえよ!」
「おめえは七光りだろうが!」
どう見ても逆手持ちが不利に思える長さの刀を文字通り手の内外で振り回して中空を長く翻るさまは、たった一人で複数の軍勢の肩代わりでもしているようだ。
「あいつ重力って知ってんのか」
「それ主任が言ったらいけないやつです」
さっきから適切に合いの手を入れてくる部下はこれでもうことが始まってから五人目で、先の四人はすでにその辺で肉になっている。
見れば四角の中三つ、中黒の並ぶ荷捌き三等。二級の対処に巻き込まれたか逃げ遅れたか、どちらにせよ今ここで生き残っているなら見込みがある。
「お前今度昇進受けてみろ、きっとすぐ一等になるぜ」
「ええ……嫌ですよこんな職場」
「見込みあるわあ」
ふと思い出して右手に握った受話器を見る。電話の向こうはとうに回線ごと切れていたと思ったが、小心の同行事務員が律儀に保持していたらしい。
「あ、あ、あの、萩荻さん、そちらはいま」
「隣の部下が四回変わったわ」
「え、あのそれは、あ、違う、いろはさんがそちらに向かうとさっき」
「あいつ多分、時刻印押すまで諦めねえよなあ」
「それはそうだと思います。帰還の時刻印でもって業務終了となりますから、その、帰還の定義が満たされないと」
切り刻まれてもすぐに接合し文字通りきりがない異物に対して、体力だけは有り余る白詰襟の馬鹿がひたすら挑み続けてはいるが、さすがにそろそろ埒があかないことには気付き始めていいころだ。
この状況を打破するには、一気に外から包み込んで封じるか、もしくは内部からその細やかな接合一つ一つを確実に迅速に潰すしかない。
それができるのはよりにもよって一番遠く保守点検に運ばれていった空座か、己の仕事にしか関心のない配達員かのどちらかだ。
一人(いちひと)君さあ、なんで内墨切れちゃったの?」
「えっ、もう切れてるんですか……?それは飲んだ本人が自覚できるものなのでしょうか」
「……あの野郎つかませやがったな」
気遣いが下手というより、余計な被害を出さないための懸命な判断なのではあろうが、それにしたって堂々と言い切る姿勢が眩しい。
目眩を覚えた刹那等しく、昇進間違いなしだった五人目の部下が見事に血袋としての役目を果たし、ようやっと道筋が見えてきた。
「よーし、全員聞け!」
つながった。ようやっと開こうとしている道が繋がった。
そも邪魔なのだ、この無駄に歩かされる空間が。そも無駄なのだ、この邪魔な距離の輪郭が。
「第五収容特別定型、目標京葉、対象空座、手順は略式仕方ねえ!責債(さいせき)六人、俺が()す!聞き逃すなよ、応と呼べ!術式三十、"小判鮫"!」
「応!」
分散したあちこちの瓦礫や壁の後ろから、応と答える声が飛ぶ。てんでばらばら散らしたそれは、それでも全て一度きりしか聞こえない。揃いに揃った、珠玉の部下たち。
「体半分持ってたところで意味がねえ!命半分喰われたところで意義がねえ!いいかお前ら、歯ァ食いしばれ!」
第五収容特別定型、通称にして小判鮫。
術式を走らせることで人為的に燐光(りんこう)を発生させる荒技だとは左手を喰われた経験のある事務員の前ではとても言えないが、つまり燐光とは空間同士の干渉により発生する発光とそこに触れるうっかりによって物体が消失する現象のことだ。
うっかり触れて"持っていかれる"現象ならば、きちんと理論でねじ伏せて意のまま"持って来させる"だけだ。
「正答を以て異議異論、回路は誤謬、胚から拝め!」
ぎ、と嫌な音がした。左腕の骨が裂けている。皮膚も肉も正常そのもので、骨のみが内で裂けている。
口上で誤魔化し六人分でその成果をちょろまかそうとしているのだから仕方ない。このくらいなら三日で治る。
五人目の部下は実に良い仕事をしたので、首から上が飛んで行く直前、うまいこと最後の線に連なる具合に倒れこんだ。今までの生きた経験すべてをその血飛沫に変えながら最後の回路を繋げたのだ。いい仕事をした。
回路は一気に廊下を突き抜け誰もが嫌がる遠い歩廊の天井を裂く。とは言えそれは擬似的に、かつ空間だけに作用するので眼前で細く歩廊の様子が見えるだけではあるのだが。
「萩荻主任!」
「おうよ!」
端的な呼応だ、素晴らしい。
一同総出で持ち上げられ、細い隙間へ投げるようにねじ込まれた空座は一瞬、この世の誰の手からも離れて、次いで己の手に収まった。
「空座確保ぉ!」
「ではあとは私が」
端的な会話だ、素晴らしい。
いつの間にたどり着いていたのか、緑を煮詰めて限りなく黒へ近づけたような学生服にも見える制服の、翻る外套は実に優雅な余韻を残して散々切り刻まれた異物へ向かう。
未だその異物を切り刻むことに集中していた白詰襟が、ようやくこちらに気づいたようだ。
「おお、いろはじゃんー。今月業務時間やべえんじゃねえの」
「一人さんは優秀ですので」
常に動き回る思考の中心部分がうまく表皮へ露出するように計算づくで切り刻み、接合具合の調節を続けていた白詰襟にここぞとばかり配達員が加勢する。
右手に掴んだ空座はその楕円の輪郭を今日も静かに温めて、やや生成りのざらつく表皮が美しい。
例外を以てすべてを無に帰す最終兵器。使い方の文法さえ間違えなければ有用な、卵型の安全装置。
「裏綴第二級種別人不成、名称空白、属性肉身、五行七文字例外を命ずる!」
一息で言うにはあまりに重いが、それでも息は限りなく鋭く。
​「"この世にいてはいけない"」
瞬間、左腕の骨が爆ぜた。
右手の中の柔らかな卵は二秒ぼんやり内から光り、さんざこの場を物理的に破壊し尽くしてまわった異物はあっという間に消失する。
まだ中空に放られていた瓦礫の類が最後の一片、床に落ちるまでほんの数秒尾を引いた喧騒は埃が晴れてくるのと同じく、見事その場は沈静した。
「……ぃいっ、でぇ」
肉も皮膚も無事な左腕の、それだけ爆ぜた骨が痛い。
場を仕切る意味もあったがそれより心底からはみ出て来た唸るような訴えに、柱の奥から瓦礫の下からわらわらと部下が湧いて出る。
一番最初に飛んでくるのはやはりいつもの面子の声なのだけれど。
「主任、もー!そうやっていっつも!労災申請の書類を面倒臭くするー!」
「そこ?」
「主任、空座回収します」
漆黒の絹布を恭しく差し出した部下の両手に空座をそっと安置して、自由になる手を確保した。
「第五特別のしかも三十番代を積債六人で上前撥ねようとする人初めて見ました」
「おお、俺も初めてやったよ。意外となんとかなるもんだわ吐きそう」
「腕一本はなんとかなってるって言わねんじゃね?」
文字だけなぞれば和やかな会話に、申し訳なさだけは人一倍の声音が割り込む。
「ああ、あの、ご歓談中にすみません」
「骨やってて歓談はねえわ、一人ちゃん」
「すすすいま、すいませ」
最後の音を見事に噛んで、鵠止一人は気弱な瞳にうっすらと涙を浮かべた。
「あの、どうして裏綴第二級なんかが……」
「どうせ閣下じゃねえの」
人一倍鋭い馬鹿がへらりと正解を言い当てる。馬鹿でなくても今回のようなことに慣れている古株職員であれば、まず真っ先にその可能性に気がつくが。
「かっか…?」
「冬来夏克」
「ふゆきかつか」
「人の形をしたこの世の終わりだ」
何色とも言えない不思議な長髪を翻し、服装だけは一丁前にまともな和装を好み、背の高い下駄を裸足につっかけて呵呵と笑う世界の終わり。厳密には、世界の終わらせ役を仰せつかった自称の男。
「あの野郎、中央に喧嘩売るだけじゃ飽き足らずうちにまでちょっかいかけてきやがる」
「いろはのこと変に気に入ってんだよ。だから一人っちゃんも将来絡まれるよぉ」
「え、ええ……僕は、しがない同行事務員ですよ…なんで巻き込まれ……うう」
困惑の崩壊現場にさらなる困惑を深めて、鵠止一人が情けなく泣いた。
「ここがそういったものを扱う限り狙われはするでしょうね」
「い、いろはさぁん……」
「どうでもいいんだけどよ、誰か担架持ってきてくんねえか」
そろそろ立っているのも辛い。骨のみ砕けてあとは無事、ほかの五体はまるで満足、血の一滴も失われずに重傷だ。
遠くの方から白詰襟とは違った種類の白色いっぱい翻し担架を掲げて御輿部隊が走ってくる。
「通りまーす、通りまーす」
「左右通行、ご協力感謝しまーす」
「前方患者確定、進路そのまま宜しく候!」
「よーそろー」
かつてこの世の七割を覆っていたらしい海とかいうものの上の取り決めで、残された三割の中の限られた平地に建てられた煉瓦造りの長い廊下をひた走る滑稽さはなかなかのものがある。裾を彩る鈴がちりちり、焼けるような音を立てた。
無事に砕けた腕の骨がほかの肉と皮膚と神経を圧迫してそろそろ視界が半分くらいになりそうだ。
「どうして」
同じ滑稽さを感じたわけではないだろう、まだべそべそと泣いていた気弱な同行事務員がぽつりと疑問で空気を揺らした。
「どうして世界を終わらせようなんて」
すでに三回、終わっているのに。
西暦は消え、東暦は潰え、南暦に至っては三桁で終わった。
四度目始まりの陽光なんか知りやしないが、残された北暦が今まさにこの呼吸の最中だ。
「知るかよそんなの」
「我々には若干の確信があります」
同じ呼吸で、白黒別のことを言う。
余計なものを拾ってくるのに忙しい集荷担当と、見事捌かれた荷を届けることしか興味のない配達員。
左右から相反することを言われてなおさら泣きそうな眉が歪んだ、左手を燐光に喰われて拾われた唯一の同行事務員。気弱ながらなんとか今ここに二本足で立っているなら上出来だ。
ここ数年の感覚で姿を見ない局長。特別収容物をこともなげに解放し、あらゆる損壊を引き起こす人型の災厄、自称世界の終わらせ役。役者は要所に揃っている。
異物に破られた丸屋根が既にその外壁を修復しつつあるのを見上げて、膝裏を御輿部隊にどつかれた。
「患者、拾得物担当萩荻主任」
「おうっふ、優しくしろよ。怪我人だぞ」
「でしたら、素直に優しくさせてください。担架へどうぞ」
何事からも己を引きちぎって平坦を保つ布地に身を預けるのは久々だ。
あちこち穴が空き、崩れ、それから自己修復されていく抜けた天井、砕けた柱、破れた壁、めくれ上がる床。
「これ中央への請求額どうなるんだ…俺は損害概算しねえぞ」
「患者、安静に」
「へい」
ともあれ自体は一番の混乱を超えているはずだ。このあと利き手で書類へ署名できるのはしばらく先になるはずだから、二番係に署名権限は委譲され、(かかり)筆頭(ひっとう)が泣くだけだろう。
「萩荻主任!てめえほんと五ヶ月先まで恨みますからね!」
「おー、覚えてたら椿通(つばきどおり)連れてってやるよ」
「言質!言質とりましたからね!」
予想通りどこかから飛んできた恨み言を投げ返して、そろそろいい加減御輿部隊からの殺意に口を閉じる。
左半身がまるで燐光に喰われたような感覚だ。どこも喰われた経験はないが。
「俺このまま死ぬ?」
「患者、死なせはしません」
「我々はそのためにいます」
頼もしい言い切りもどこか耳の後ろ、遠くから聞こえてくる。
これはいよいよ己自身をまず休める段階へ来ていることをさすがに自覚して目を閉じた。
少しの御輿の揺れから治療室らしき匂いが香って扉が閉まる寸前、頭の奥でなにかが呵呵と笑った気がした。畳む

一次創作

創作:郵便屋さんの話。
世界が三回終わった北暦(ほくれき)で教員を頑張ろうとして郵便屋さんに拾われる話。#郵便屋さんの話

すでに三回終わりきった四回目の暦だとして、己自身の終わりを明確に意識できる機会に見舞われるのは、それでもきっと珍しい。
無意識で飲み込んだ生唾が動かした喉仏だけが突きつけられた切っ先の下で唯一、呑気だ。そのまま息をするのも許されそうになくて、思考回路は迷走を極めていく。
打開のために喉を震わせたのは、しかして情けないほど引きつった声だった。
「く、鵠止(くぐどめ)一人(いちひと)二十七歳中央研究室付属第三校考古学専攻学科准教授好きなものは『薄荷区(はっかく)』のみつ豆で趣味は裁縫嫌いな食べ物は蜂の巣です!!」
後半、自棄である。
徐々に勢いづいて大きくなる声量は多少周囲の木々を揺らしはしたが、目の前にある凛、と音でも鳴りそうな人影には一片も響かない。
一見すると真っ黒な、深い緑を煮詰めたような少し青みの色彩で統一された、西暦のころの学生服と軍服を合わせたような詰襟。
暗がりによくとけ込みそうな外套の中、すらりと伸びる四肢の中心、陣取るように華奢とも言える細面。行儀よく頭を包む制帽は深く被っているわけでもないのに、ずいぶんと目元に落ちる影が濃い。
「怪しいものではないんです、ほんとうです、ほんとうなんです所属は中央に問い合わせてくださいしがない実地検分途中の准教授なんですほんとうです……」
「常套句とは、わかっていらっしゃるようですね」
呆れたような声色で、ようやく刃は喉から引かれてあるべきところに収まった。
「少なくともこちらが定めた入り口以外から敷地内に入る時点で、だいぶ怪しい自覚はおありで?」
「うう、すいませんどうも道に迷ったようで」
この瞬間、さきほどの自暴自棄な名乗りと自己紹介の後ろに方向音痴も付け加えられたに違いない。
確かにどうみてもここは建物の裏手側の類、少なくとも来訪者に開かれた雰囲気ではないし、周囲は控えめに見ても森だった。
踵を返した制服姿の向かう先、重厚な煉瓦作りの赤茶色い建物は、いくつかの丸屋根を戴いて避雷針がわりの風見鶏をぬるい八月の空気に回転させていた。
そのくせ、空はどんよりと灰色である。
「あの、あ、あの……ええと」
「どうぞこちらに。出自がどうあれあなたもここにいるということは、そういうことです」
「はい、ええと、はあ……」
説明しないわけではないが、言葉を増やすつもりもないらしい。
自己申告はすべて事実で、なにをどうしてこんなところに出たのかわからないのであればもはや翻るその後ろ姿を追う以外にはないのだ。
山道を歩く予定なのだから慣れた靴を、と選んだ半長靴がためらうほど磨かれた廊下を少し歩いて通された一室で外套と鞄を所定の位置であるらしい壁に掛け、ようやく敵意のなさそうな手が差し出された。
「どうぞ、おかけください。いま担当を呼びます」
白手袋の示す先、一人用の革張りの椅子。二つ並べられた左右のどちらか選びかねて、いっそ対面の二人掛けを占有してしまおうかとも思う。
三つある選択肢のどれを選んでも居たたまれない気持ちに差異がないならと腹を括って、利き手の方に荷物を置いた。
そんな葛藤を知ってか知らずか、内線らしき黒電話に置かれた受話器がちりんと一つ無自覚な金属音を立てた。
慣れている、のだろうか。何を言っても言い訳にしかならないような不法侵入以外の言葉を欲しいくらいの状況と、その対処に。
いつの間にやら出されていた、美しい緑茶で満たされた湯のみで右手を暖めながら、曇る眼鏡に少しだけいつもの悪態をよぎらせる。
「さて、担当が来るまでに少しお話を伺いたいのですが」
「うぇおっ、う、はいっ、どう、ず」
「道に迷ったと言われましたね、実地検分とも。麓のあたりにお宿が?」
問われて初めて、絶句した。
「……ええ、と」
空が、どんよりと灰色である。
「わか、り、ません」
まるでそこだけ、丸ごと抜き出されたようだ。
例えば続き物の小説の中巻、調べたかった百科事典の"か"行第七巻、箱の形で思い浮かぶのはきっと普段から書物に囲まれているからだろう。
素直な自己申告は、すべて事実だ。
「なるほど、よくわかりました」
そんな答えでも、及第点以上ではあったらしい。
「先にご説明しておきますと、先ほど呼んだ担当者は遺失物係の者です」
「遺失物、ですか」
「付け加えて、ここはそうった"失くしもの"を探す方の照会先としても機能しています」
無くす、亡くす、失くす、ありとあらゆる、なくなってしまったもの、者、物。
「ぼ、くの場合は、それが、出自ということですか」
声が掠れる。いつものことだ、緊張したり戸惑ったり、臆病で過敏な精神にこんなところだけが従順だ。
「いいえ、出自は先ほどご自分で述べられた通りです。厳密に言うのであれば、直近の記憶と言うところでしょう」
「い、いま、今日は何月の、いつですか」
「八月の十七の日、夏時間ですので中間を過ぎて七時と十二秒ですね」
最後に暦の一覧を見たのはいつだったか。
もともと研究職ゆえか世間一般の動きとは盛大にずれのある、よく言えば縛られない生活をしていた。縛られるとすれば唯一、論文やら試験問題やらの締切日だけだ。
試験問題の。
「し、試験、だったはずなんです。夏期休暇前の、二期の、進級試験で、一学級全体で取り組む実地を含んだ、もののはずで」
確信が、確信だけがない。感覚はそう示す己の過去に、普段であれば何も言わずに付属するその確信だけが、今はない。
失くしたものは、その確信ではないのか。
「試験、問題の……流出があって、それで、急に、準備のできないようなもので、することになって」
「その先は、担当者が詳しく伺います。ところで」
混乱を落ち着かせようとする意味か、明らかに意図して言葉を切った。
「あなた、どうも左手も失くされてるようですが、お気づきですか」
「え、」
確信と、左の手。
見やる先には空っぽの袖。右手だけを暖める、湯のみ茶碗。
確信と、左の手。
木々が揺れる。座っているのに足下が揺らぐ。風もないのに風見鶏は回る。

空は、どんよりと灰色。畳む

一次創作