No.105, No.104, No.103, No.102, No.[4件]
創作が人間の救いであること、祈りであることを再確認する映画「落下の王国」を観よう。
あの世界に必要なのはオリロー(避難器具)です。すべてがネタバレ。#映画感想

前々から映画をよく観る人たちをフォローしている映画情報用アカウントで名前だけはよく見ていたものの、なにやらいろんな事情があるらしくて再上映がされず……で有名だった印象がある「落下の王国」。
この映画を観て自分が創作でやりたかったことを満足させられてしまい(※)、筆を置いたひとの話まで流れてくるもんだから一次創作もやる身としては少しばかり緊張しながら観たものの、結論から言えば創作に対してのアプローチが異なるので擦過傷で済みました。でもあれが致命傷になるひとがいるのもわかる。それだけなにか強いエネルギーを秘めている映画であった。
(※真偽は別として本当にそのひとがいたとするなら、あくまで映画を観に行っただけであって自分の創作したかったものを他人の作品で満足させようとしたわけではないと思うのでこの表現をしています)

俺たちは大人だからロイになにがあったのかをあの少ない情報からでもうっすらとわかってしまって、それがスタントを生業に選んだ人間に対してどのような意味を持つか、重みを持った事実であるか、というのもうっすらと想像がついてしまうし、俺たちも子供だったからアレクサンドリアが空想で時間を潰すこととその必要性がわかるし、アルファベットが読めなくて数字だと思ってしまって勝手に錠剤を捨てることもわかるし、だからこそアレクサンドリアにそれをやらせたロイに対してはしっかり怒らなければいけないし、あの時代にそうすることが難しかったのもわかる。先人の命と血で病院の安全はできているから。

ロイが物語の最後にあらゆる仲間たちをばんばん殺して行ったの、本当に自殺願望が強いことの現れすぎて「おまえ、おまえちいちゃい子に、なに聞かせて、やめい!!!!!」ってビンタしてたくらいなんですけど、ロイに届くのはアレクサンドリアのまっすぐな「立って」なんだよな………どうも上記の映画情報アカウントのタイムラインを見るにインド神話の下敷きがあるそうなんですけど全然わからないため、アセクシュアル・アロマンティック人間個体としては最後の最後で安易に愛だの恋だのを取らず千切って捨てたのめちゃくちゃ良かったです。
愛ってもっといろんな形があって、それはその当人間だけのものだから、子供が無邪気に憧れるような異性愛模範だけじゃないんだよな。それをあの時代の作品でやってくれてありがとう、の気持ち。アレクサンドリアのふん、ってするのかわいかったですね。やたらキッスをさせたがっていたりして、年相応(そうか?)のおしゃまなおませさんって感じで大変良かった。

子供に語り聞かせる物語がベースだから、容易に現実側と物語側を行き来する構造がメタ視点大好き人間には受け入れやすく、またここら辺の要素でめちゃくちゃ人を選ぶだろうな、と思いもするので安易に他人に勧められない映画トップに急に躍り出てきてしまい困惑しています。急な景気のいい爆発とか大好きなんですけどね………。

オウディアス総督の手下たちが出てくるとき、犬はいないのに犬(や狼に近い獣)の吠える声がするの本当に嫌すぎて「人間の悪意を人間でないものでえがくのがうますぎるだろ」って声に出るかと思いました。あと被っている兜に変に声が反射している、のではない範囲で子供の甲高い声みたいな声がするのも「人間の悪意をえがくのがうますぎるだろ」になりました。

人間が世界に絶望しているとき、そこから一旦希望の方向に顔だけでも向けさせるために必要なのって人間でないものの場合と、人間である必要があるパターンがあると思っているんですけど、今回は人間である必要があったパターンで、それって本来はカウンセラーとかそういう専門職なり専門知識がある人間があたる仕事なんだけどあの時代を考えるともう全然それは望めなくて、アレクサンドリアはまだギリギリ5歳だから今後の忘却に賭けて子供に対してやるにはキツすぎるカウンセリングが大回転して一旦ハッピーエンドに落ち着いた、って感じの話でわりかしギリギリとしていました、胃が。やらすな………ッッッt……こどもに………そんなこと……………ッッッッ!!!!
あと侵入を想定していないのは当たり前すぎるんだけど処置室にあんな外から中見える窓、いります!?死やんけ!!!!!!!そこにあるの!!!!になり………怖いよね……夜の病院ね……………になりました。俺は別に夜の病院を知らないんですけど、こわいものとしてなぜか意識に刷り込まれているので………怖いよね………抱きしめてやりたい………聞いてるかロイ。お前だぞそれをやらんとならんの。おい。きいてるか。寝るな。寝てる場合じゃないぞ。Not time to sleepだぞ。聞いてるか。起きろ。
アレクサンドリアが本当に気まま〜に人の話聞かないあの年頃の子供全開なのめちゃくちゃ良かったから、ところどころに挟まる曇らせに「やめてください……」って本気のダメージを受けていたな………。

タイトル回収なのか、だいたいの人間が落ちて死ぬのなんなんですか?になったのはちょっとおもしろかったです。オタクはタイトル要素を作品内で回収されるのが好き(主語でか)あと愛の象徴だった弾丸を受け止めたロケットすら放り投げられて高いところから落ちていくのも好き。あれはあそこが真髄だと思っています。あんなちっぽけなものに愛だのなんだのとまるで命を賭けてもいいもののように言っていたのだ俺たちは。それとの決別。美しかったな。

アレクサンドリアが頭打って処置室にいるところにやってきたロイがめちゃくちゃしっかりした酒瓶からストレートでウイスキー(たぶん。色的に)煽ってたの馬鹿な大人すぎて「持ち込ませるなそんなもん!!!!」って思ったしちょっと笑っちゃった。しっかり酒飲んでんなあ、この大人………!!!!!!!
全体的に本当にすごく良かったし、評価が高くて根強いファンがいるのも納得だけど病院内の重大インシデントで気が散りすぎる映画、「落下の王国」。おすすめです。畳む
つらつら
「罪人たち」を観ていろんなことを考えるんだぞ。俺との約束だ。
ホラー映画だけど面白そうだったので観に行ったら案の定、大面白(おおおもしろ)だったので以下、すべてがネタバレの感想。#映画感想

冒頭から他作品の話をして申し訳ないのですが、俺が以前ホラー映画の皮を被ったわくわく大乱闘怪獣映画「NOPE」を大絶賛していたのを覚えておいででしょうか。「NOPE」はわくわく大乱闘怪獣映画ではない、というツッコミも一旦同時に傍に置いておいてください。
信頼している映画人で作り上げたTLでちらほら好評なのを見てはいたのですが、いかんせんこの俺はあらゆる労働と同じくらいにホラーが嫌いです。苦手だし、嫌い。やだ。こわい。普通に嫌。衛生観が一生相入れない。怖いとかの前に汚いやろそれは。みたいになっちゃう。グロとゴアとの区別をつけんかい。痛いのは嫌なのは当たり前やろ生き物なんだから。みたいになっちゃう。とにかく苦手です。

なので「罪人たち」も面白そうだけど……ホラー映画…いやでも………と悩んでいたところに、「NOPE」と似たような種類の映画であるという情報が舞い込んできて、ならいけるか……!?と腹を括った次第でした。血の出方はどっちもどっちです。俺はホラー映画を血がいっぱい出るもんだと思っている?たぶんそう。苦手ゆえにあまり触れてこなかったので理解の浅さは許してください。

公式のアカウントだったかなにかで怪異が吸血鬼である、というのは事前情報で知っていたのですがいかんせん中盤結構まで吸血鬼要素が一個もなくて「おや……??」になっていたのですが、途中から急に出てくる。本当に急に吸血鬼が出てきて「お、おや……??」になり、最終的に大乱闘わくわく吸血鬼全部焼き映画になったので「おぉ………」って言ってました。大乱闘わくわく吸血鬼全部焼き映画ではないです。

アパルトヘイトが罷り通っている時代、綿農園で綿花を摘む指はすべて黒くて、虐げられていた時代。
わけもわからず連れてこられて、かろうじて生き延びた先祖たちが本当に拭けば飛ぶような細い炎を、しかして小さいながら確かな灯りをずっとずっと紡いできた黒人たちの中に根付いて息づく音楽というもの。
以前から「一番身近な音楽楽器は人間」(一人きりでも手を叩く、や、なにかを打ち付けるなどでリズムにはじまる最小単位の音楽を奏でられるため)と思い続けているんですが、連綿と続く音楽という中に込められたそのときそのときの背景を俺はまったく知らないにも程があるのだけれど、人間が会話をしてコミュニケーションを築く生き物である限りおそらく音、という手段についてはかなり万人にとって文字通り耳を傾けるきっかけになるわけで、そしてそれは苦しい状況にある中でのたしかな光であったわけで、そうでなければ現代に至るまで音楽の持つ力が続いているわけがないので。

苦しい状況にある人が、苦しいままでいろというのはまったく間違っているし、苦しい状況にある人がそれでも希望を失わないために行っているレクリエーション(ほとんど祈りの儀式だよそれは。そういう話もしていましたね)の場面だけを切り取って「彼ら彼女らは苦しんでいない」というのもまったく間違っていて、このあたりの構図は現代でもなんでも変わらないし、むしろSNSやショート動画などのインターフェイスや構造側が端的なもの、より端的なものを短絡的で瞬時の快感のために消費するスタイルになっているあたり、”いま”の俺たちの方がずっと毒されているので、改めて考えろよ、と言われているような気がしました。これは個人の感想なので「言われているような気がしました」で正しい。

そして「黒人が」音楽で食っていく、ということの、あの時代における残酷さ。
要するに「白人でも」「わかりやすい」「白人(おれ)たちを」「満足させる(気持ち良くしてくれる)」「音楽(何かしらのインターフェイスを持った消費しやすいなにか)」だから受け入れられたわけでしょ。文字通り「目をつぶっていても」心地よく、気持ちよく、不快にならず、演奏者のことやその音楽が生まれた背景に目を瞑っていても上っ面だけ享受して楽しんで咀嚼して吐き捨てるように消費できるものってことでしょ。
あるいは芸術方面のこと、というのは古来からインテリ層やインテリぶりたい層(けっして倫理観がしっかりしていたり、善人であったりするわけではない、ということが重要)に人気の、明確な一定の点数などがつけづらい個人の好みが大きくその評価に関わってくる分野のことだからそこそこ「大衆向け」を掴んでしまえばそれなりに需要と供給が成立する。
俺たちはずっと本当のところで「その個性(タレント)を、妨げるものか?肌の、色が?」を問い続けなければいけないし、なぜその肌の色が生来いなかったであろう大陸にいるのかを考え続けなければならないし、繰り返してはならない。ずっとその根本には抗っていかないといけないし、抗っていくには学ぶことをやめてはいけない。

そんで急なアイリッシュ音楽祭り、なに?!!?!! 吸血鬼になるとアイリッシュ音楽を習得できるんですか!?なに!?!なんで??!??!!!!!!めちゃくちゃいい声するやんけ、みんなから!!!!!!息ぴったりやんけ!!!!(これはカラクリがわかりますが)マジで生前かなり音痴だったりしてもああなれるんですか?!?!1なんで?!??!?!!!!
と思いつつ、アイリッシュ地方の移民たちのことは「片喰と黄金」で知っているので、彼ら彼女らもまたアメリカ大陸に移ってきてそこでなんやかやあったために、故郷のことを想う手段としての音楽を持ち合わせているのだな、とは思いました。なんか……なんか急にダンスしだすのちょっと面白かったですけど……………。

あと「吸血鬼は招かれていない家(場所)に入れない」と「にんにくや銀に弱い」をやるのに最後サミーのことをめちゃくちゃ水の中に追い詰めていて、最初あそこ川かと思っていたので「銀やら入れないやらはやるのに川は渡れるんかい!!!!!」(川だと思っていたので吸血鬼は入れないから実質勝利やんサミー!!!って思っていた)になったんですが、よく見たらとくに波が立っていたりはしなくて流れてないっぽいからあそこは湖とか溜池みたいな感じだったんですかね? もともと製造所だったようだし、水源地的な………?たぶんそう。吸血鬼⁠招かれていない場所にいけないネタをずっとやってるの律儀でちょっと面白かったし、わたしはああいう境界線を越えられるかどうかで人間かどうかを試される要素が大好きなのでニコ………ってしていました。最後のバーのシーンも本当に良かったですね。

最初、吸血鬼とかホラー要素とか全然ないから「???」になっていたのだけれど、あれは最後の最後ですべてを失うための丁寧な伏線で、それでも残ったものの輝きを小さいながら確実に光らせるための丁寧な描写だったんだな………土地を移るということの大変さを、たいていの人間がその生まれや今現在で知っているからこその、それらが失われるることと、回想するたびに強くなっていくそのときどきの情景が美しかったことなどがまざまざと伝わってくる。

無知なころは差別……よくわからん……になっていたのだけれど、最近(一応年月で言えば数年以上経ってるけど、あまりにそうでなかった頃が長いので最近と短めに言っています)ようやくいろいろなことを見聞きしてそこから学ぶ、ということが曲がりなりにも形になってきつつあるのであの映画の時代背景を考えるとすべてがクソなのですが、「そうしなければならなかった」のか?本当に?という問いと、それはそれとして差別は全部クソ、という確信は両立するので、ずっとそうやってこれからも考えることをやめたくないな、と思う映画でした。

奪われたものを取り戻すとかではない、でも地に足ついていま持ってるものを「これ以上」奪わせないっていう、「これ以上」なんだよ……そこにしがみつく人間の……人間の……でっけぇ愛……俺はなんでもでっけぇ愛って言いがちですけど……魂のはなし…………。そしてサミーのように「そうせざるを得ない」ほどの魂と密接に関わるなにかを持って産まれる人間は確かにいて、その人間に対してそれを手放せというのはお前の魂を自らで殺せと言っているのと同義で、選ぶことには困難が伴い、時にはまったく別の離別を必要とするが、それでも選んだものを、ずっと手放してはいけない。そういう話だった。 いえ、あの、時代背景を加味したいろいろと言いたいことはめちゃくちゃあるのですが(先日「アファーマティブ・アクション 平等への切り札か、逆差別か」(南川文里 著)を読み終えたところだったのでその辺もスッと入ってきやすく、キツです………にはなっていたのですが………。

サミーが最後、ギターを手放すかどうかのところで「やめろ〜〜!!!!!!そのままいけ〜〜〜ッッッッおまえのオールを他人に任せるな!!!!!!!!!(中島みゆきが好きです)サミーーーーーーッッッッッ!!!!いけ〜〜〜ッッ差せ〜〜〜〜!!!!!!」って競馬でも見てるんですか?みたいな応援しちゃったもんな。そのあとサミーがギターのヘッドだけ持って車運転してて泣いちゃった。それでいいんだ……と俺は安易に言えないけど………!!!!! そして最後の最後にさあ!!!!!あのとき殺しきれなかった吸血鬼になった二人がさあ!!!!サミーのことをさ……でもちゃんと約束守るんだよな………時代に適応して生きているし、多分その辺の人間のことは趣味で殺したり仲間にしたりしてるんだろうけど………。

あの吸血鬼たちは感覚や記憶を共有しているってことは、たぶんあの最初のアイルランド吸血鬼たちに噛まれて吸血鬼になったときに彼ら彼女らの記憶や感覚も共有していて、おそらく移民というところで(自発的な移民か奴隷として連れてこられたかの違いはあれど)共感(共鳴?共振?)はあったのかな、故郷を想う気持ちの部分はどこからどこへ移動したって続くものな、ある程度は、という気がしている。
彼ら彼女らの魂はあそこで燃えてそれで終わりなのだろうか。もう消えてしまったんだろうか。白人を容赦なく殺し、同胞だって容赦なく殺したスモークが最後に見たあの景色は天国だったんですか?あるいは取り戻したと思ったアニーと自らの子を再度失って地獄に行くのだろうか。それがスモークの罪なんだろうか。

タイトルもキャラビジュアルも「WE ARE ALL SINNERS」で、そう、彼ら彼女らはみんな罪人なのだ。

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つらつら
映画感想:引退後にぴったりな本当に急に一瞬だけ治安が最悪になるほのぼの北アイルランド田舎暮らし映画「プロフェッショナル」を観よう!
作中で死ぬ動物が人間だけという時点で95点くらいつけてしまう人間がなんか言っています、すべてがネタバレ。#映画感想

好きになったキャラ、死んだが?!?!!!
びっくりした、本当にびっくりしました、いままで好きになるような素振りもなかった方向性のキャラクタを好きになったな珍しく、と思っていたら途中の全然なんでもないシーンで「あっこいつ死ぬな……」と謎の確信があり、本当に死にました。
そのシーンもカルフォルニアに行きたい、という夢を語っているときでもなければ主人公から今まで貯めてきたお金を託されて「殺しなんかやめて夢を追え」って言われてるシーンでもなく、どこだっけ、猫を膝の上に乗せて寝こけてるシーンだっけ?なんか本当にその辺りの本当に普通のシーンで何故か確信を得たので俺は多分人間から漂ってくる死の気配にあまりにも敏感だし、なぜかその危うさに惹かれる感性を持っているのだと思います。本当に最悪である、己が。

今回も特に前情報なしで観にいったので時代設定が1979年なんだ!?になり、やたらとアナログなデザインのタイマーが可愛いすぎてにこやかになり、その用途が最悪すぎて「最悪……」って言ってたりしました。物心つく前の、しかも海外が舞台の場合は時代考証が正しいのかどうかすらもまったくわからなくて新鮮に受け止められるので好きです。
だもんでケビン(上記の死ぬキャラです)が一瞬映るシーンで「治安が最悪のビートルズみたいな人いた…………」って思ったそれがまああんなに良いキャラだと思わなくてあれよあれよと「こいつ……好きだな……」になったら死にました。なんで?????????本当になんで???????

物語の範囲としてはものすごく狭い範囲の、ものすごく小規模なものなのだろうけれど、人間は善悪どちらか一辺倒をやるには基本的に弱すぎるし、悪の方を選んだ場合に大義や、家族であるとか、ここに放り込まれたからという開き直りや、そういう自分の手には余りあるごくごく大きいものに責任を転嫁して自分自身すらだまくらかして生きていかないといけないんだな、というのを丁寧にやっている物語でしたね。好きです。

それと同時に穿とうと思えば世の中が戦争に傾いている昨今、この善悪の線引きが極薄くて曖昧になっている時勢に、なにを大切にしてなにをないがしろにしてなにを手放して傷つけていくかの責任は、たとえその理由を個人個人が個人個人によらないものへ負わせていたって選択の責任は個人が取るのだ、という本当に大切なことをやっているな、と思いました。
死ぬ前に善いことをひとつかふたつやったところでいままでの罪は帳消しにならないし、だからといってやらなかった善いことはこの世にまったくないことは明確なのでなにか、なにか、なにかを、と自分の中で見失って擦り切れてしまった希望に対しての道を探すように縋り付く人間がいてもまったく変なことではないし、人間はその信ずるものによらず救われたいのかもしれない。
そうしてああいった海が近く、寒くて、雲が速く走る土地ではより人間の温かみを持ち寄って寄り添う必要が生活上にあって、そのあたたかみのことを愛と言うんですけれども、過去に与えられなかった愛に飢えているこの物語の登場人物たちはどこまでいってもよそ者だったのだな、と思います。まだロバートに拾われて役目を与えられていた(そしてこれもまた自分の責任を追えない理由の一つになりうる)フィンバーやケビンの方が愛ではないにせよ他人から必要とされる場面を持っていただけマシな気がしてくる。どこへいっても地獄ですけれども。

観終わったあとにすでに複数回言ったんですけど、フィンバーはあのあとあの車のままカルフォルニアにいってなんやかんやありながら地元じゃ負け知らずのクセ強アイリッシュじじいとして中古レコード店名物店主になって天寿をまっとうしてください。猫を飼い、家庭菜園をカルフォルニアでやれ。

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映画感想というかネタバレというかこれだけは忘れないうちに言っておきたい本当に最後の顛末に関わる部分のこと。
「教皇選挙」の絶対に事前に踏んではいけないタイプの結末部分の話をしています。

「教皇選挙」はかなり良かった映画に入るんですが、その結末である教皇に選ばれたベニテスのインターセックス(卵巣と子宮を有する。前教皇はそれを「取り除けば」問題ないと思っていたということはおそらく外性器は男性で性自認も男性に近い。本人も「神学校では体の違いなど気にしていられない」と言っていたが流石に外観でわかる相違を放っておかれはしないと思うので)が判明したとき、ノンバイナリーである自分自身としては「生まれ持った内臓構造に左右されない自己を築いている〜!!!!!!!」と大変頼もしく思ったんですが、劇場を出たあとに同じ映画を観たと思しきご婦人方(これも外見で判断しているのでその人の実際のところは知りません)が「顔つきがちょっと女性っぽいと思っていた」「ね〜」みたいな話をしていて、俺自身はまるでそんなことなかったもんだから「?!?!??!?!!!!???????」になったんですね。混乱も混乱ですよ。

外観と、本人がどう思っているかは、全然つながらない!!!!!!!本人に開示されない限り!!!!!!!!!!!!をずっとやってた映画じゃん??!?!?!!!!!!!!!?!??!!!ほんまに同じ映画観たのか1??!?!??!!!!!??????

そして少しだけその場から離れてから、ああ、そうか、そうだよな、それが普通なんだよな、と思った次第、という話。なんだろうな、寂しさとも違うし、なんだろう、我々といってしまえもしない一個人の俺は、ずっとこういう自分に対して外側から投げかけられる勝手な断定を曖昧に笑って諦めねばならない状態をずっと強制されてきている(本来、会話において性別を区別する必要がある話題でない限り、個人間であれ集団であれ肉体や性自認についてまったく限定せずに成立させることは可能なため)から、ああ〜〜〜〜〜〜わかんねえんだろうな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜って、言葉を選ばないとそう思いました。

そりゃそう。自分にないものはわからないから、それはそう。俺だって他人への性欲ベースの恋愛感情が一生わかんないだろうから全然意味不明でずっとわからないままで怖いし。俺の中にあるのアガペに分類される愛なので他人への……性欲……???????ってずっと首傾げててそろそろ世間が斜に構えた状態でしか観られなさそう、みたいな誰にも言えない冗談が持ちネタだし(現実で口に出したことはないです)

わからなくていいから、放っておいて欲しいんですよね。
わからないな、と思うだけでいいんですよね。わからないから、こわいとか、不安とか、そういう仕組みなのはもうこっちだって知っているので。同じ人間なので。動物の反応って一律そうなので。距離取ってくれていいし。全然、私だって別に知らない人に自分のこんな話しないし。じゃあインターネットとかいう全人類可読可能の可能性を秘めたところに書くのなんなんだって話ですけどそういう人間を可視化していかないとなかったことにされているのをずっと観てきているので、いるよ、とは。表札を掲げてはおきたいの気持ちです。

個人としてはあの結末を、「ああ、こういう生き方をしてきた人が本当に教皇になったらいいな」という気持ちと、でもそうではないんだよな、現実は、というフィクションならではの希望みたいなものだけちらついて、いい映画だったなと思いました。

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