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映画感想:「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を観たよ!の話。ネタバレ。(初出:2023-03-08 15:52:41/くるっぷ)
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」、全宇宙規模のでっかい家族愛の話で良かったな……その軸がぶれないので安心して観られた。
あくまで終盤の他人の願望救済もジョイの手を掴むために、そして離すために道を開ける必要があったからで、エヴリンにその救い自体を望んでない(あくまで副産物的に生じていた。結果としてジョイなるに追いつくと言う望みは叶う)っていうのがわかるのもとても良い。
ジョイの思春期の話であり、自分の性自認についての葛藤であり、母にそれを認められたいという家族属性の中で生き残るのに必要な要素を満たされないままの人間の姿であり、それはエヴリン自身の過去でもあり……得られなかったものをどうやって手放してあるいは手放さなくても隣においておけるか、と言う話だった。
自分が親にされて傷ついたことを、親として自分の子供にしたくない、っていうの、父親への反抗とエヴリン自身への自己救済(自分が自分を救うんじゃい)というエゴのかたまりの一片でよかったですね。エヴリンが最初自覚的でなくて、でも最後に一回ジョイの手を離してベーグルへ進ませること、それはジョイ(ジョブ・トゥパキ)の消失を願う直前の父親とは全然違う理由からなのもあの怒涛の映像の中であれだけわかりやすく描いたのすごいなあ。
結局、自分がされたかったことを他人にするという行為は遡ってしまえばエゴでしかないんだけど、そのときどきにおいて確かに他人への救済にもなりうるんだよ、って言葉で語るとごちゃごちゃとした注釈で本題が隠れるほど必要になりそうなところをあのライティングも衣装も重力もめちゃくちゃな画面の中ですっと出されるのすごい。
じわじわと咀嚼して思うところとして、途中、ソーセージハンドバースのエヴリンと税理士さんがパートナーになってところにいま(暫定的に”いま”とします。一番最低の「なんでもできる」エヴリンのこと)のエヴリンがジャンプしちゃって大騒ぎするところあるじゃないですか。
あれって、本編が「家族愛」(家族とは言え個人個人、別個体、あなたとわたしはちがう、個人間のでっけぇ愛の最小構成単位になりうる立ち位置、理解しなくていいから隣にいたい、いていいよって言って、)の話である以上、なんとなくだけど今後、家族を構成しているエヴリンやその家族たちにふりかかるであろう認知症のことも示唆しているのかなあ、とか思ったりもする。
急に人が変わったようになってしまっていままでの関係が難しくなる、ってそれだけ書くと「あ〜………」という理解というか結論が見えてもおかしくないなあ、と。まあこれは俺の母方の祖母が認知症になってしまっている昨今の現状が強く閃きに影響しているのかもしれないけど。ただね、忘れていくだけじゃないよ、っていう、寄り添いのそういう、やっぱあそこも家族愛のことだよなあ。人間と人間の最小構成単位を「家族」とした場合の。
家族愛の話でありながらも、家族愛がすべて!!!ほら!ってやってないところ。あくまで人間と人間の間に交わされる愛情っていうものの一つのかたちとしての家族という単位、共生構造であるだけでそれがすべてではないしそれが至上でもない、っていうのは散々描いてくれているので心がざわめかなくてよかったです。
参道家はめちゃくちゃにまともな家なので両親から幼少時より「家族といえど他人であり、他人である以上はお互いに敬意を持って過ごす必要があり、あなたが成人するまであなたは自分のことに責任を取ることが法律上できないので、その責任を追うために我々(両親)がいます」という説明をたびたび受けてきたのでフィクション作品の「家族」像を見ると「大変だな……」ってなることの方が多いんですが(ていうか九割そう。そうならないの、主人公たちが成人済みでこざっぱりした家族関係が描かれてるときだけ)「エブエブ」はそのへんもうまく見せながら最終的にあの家族は家族という単位にまとまりましたよ、でも全宇宙のほかのバースは知らんけどね、をやったのすごいよかった。
よかったしか言ってないけどよかったんですよ………とても……………!!!!!!!
思い出したらまた書くかも。畳む#映画感想
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を観たよ!の話。ネタバレ。(初出:2023-03-08 15:52:41/くるっぷ)
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」、全宇宙規模のでっかい家族愛の話で良かったな……その軸がぶれないので安心して観られた。
あくまで終盤の他人の願望救済もジョイの手を掴むために、そして離すために道を開ける必要があったからで、エヴリンにその救い自体を望んでない(あくまで副産物的に生じていた。結果としてジョイなるに追いつくと言う望みは叶う)っていうのがわかるのもとても良い。
ジョイの思春期の話であり、自分の性自認についての葛藤であり、母にそれを認められたいという家族属性の中で生き残るのに必要な要素を満たされないままの人間の姿であり、それはエヴリン自身の過去でもあり……得られなかったものをどうやって手放してあるいは手放さなくても隣においておけるか、と言う話だった。
自分が親にされて傷ついたことを、親として自分の子供にしたくない、っていうの、父親への反抗とエヴリン自身への自己救済(自分が自分を救うんじゃい)というエゴのかたまりの一片でよかったですね。エヴリンが最初自覚的でなくて、でも最後に一回ジョイの手を離してベーグルへ進ませること、それはジョイ(ジョブ・トゥパキ)の消失を願う直前の父親とは全然違う理由からなのもあの怒涛の映像の中であれだけわかりやすく描いたのすごいなあ。
結局、自分がされたかったことを他人にするという行為は遡ってしまえばエゴでしかないんだけど、そのときどきにおいて確かに他人への救済にもなりうるんだよ、って言葉で語るとごちゃごちゃとした注釈で本題が隠れるほど必要になりそうなところをあのライティングも衣装も重力もめちゃくちゃな画面の中ですっと出されるのすごい。
じわじわと咀嚼して思うところとして、途中、ソーセージハンドバースのエヴリンと税理士さんがパートナーになってところにいま(暫定的に”いま”とします。一番最低の「なんでもできる」エヴリンのこと)のエヴリンがジャンプしちゃって大騒ぎするところあるじゃないですか。
あれって、本編が「家族愛」(家族とは言え個人個人、別個体、あなたとわたしはちがう、個人間のでっけぇ愛の最小構成単位になりうる立ち位置、理解しなくていいから隣にいたい、いていいよって言って、)の話である以上、なんとなくだけど今後、家族を構成しているエヴリンやその家族たちにふりかかるであろう認知症のことも示唆しているのかなあ、とか思ったりもする。
急に人が変わったようになってしまっていままでの関係が難しくなる、ってそれだけ書くと「あ〜………」という理解というか結論が見えてもおかしくないなあ、と。まあこれは俺の母方の祖母が認知症になってしまっている昨今の現状が強く閃きに影響しているのかもしれないけど。ただね、忘れていくだけじゃないよ、っていう、寄り添いのそういう、やっぱあそこも家族愛のことだよなあ。人間と人間の最小構成単位を「家族」とした場合の。
家族愛の話でありながらも、家族愛がすべて!!!ほら!ってやってないところ。あくまで人間と人間の間に交わされる愛情っていうものの一つのかたちとしての家族という単位、共生構造であるだけでそれがすべてではないしそれが至上でもない、っていうのは散々描いてくれているので心がざわめかなくてよかったです。
参道家はめちゃくちゃにまともな家なので両親から幼少時より「家族といえど他人であり、他人である以上はお互いに敬意を持って過ごす必要があり、あなたが成人するまであなたは自分のことに責任を取ることが法律上できないので、その責任を追うために我々(両親)がいます」という説明をたびたび受けてきたのでフィクション作品の「家族」像を見ると「大変だな……」ってなることの方が多いんですが(ていうか九割そう。そうならないの、主人公たちが成人済みでこざっぱりした家族関係が描かれてるときだけ)「エブエブ」はそのへんもうまく見せながら最終的にあの家族は家族という単位にまとまりましたよ、でも全宇宙のほかのバースは知らんけどね、をやったのすごいよかった。
よかったしか言ってないけどよかったんですよ………とても……………!!!!!!!
思い出したらまた書くかも。畳む#映画感想
いままでの擬人化創作とか二次創作とかを小説、文章メインでいろいろ追加しました。カテゴリ作ってあるのに0なの悲しいので…………。悲しいついでに一連の擬人化シリーズ名がタグにすると感嘆符がハッシュタグにならなくてしょんぼりしているのもあります俺はいつもこうだ。
ピクシブにもいくつか擬人化小説を上げているので、そっちも引っ張ってこような。短歌もノートにばらばらに詠んでいるせいで急にジャンルの一首だけ紛れていたりして「どうして」って言ってる。過去の俺、どうして。現時点の俺がとまどっています、そういうのやめてください。と言ってもその時々で整理するときの基準が違うのでたぶんいまの俺も将来的な俺に「どうして」って言われるんだろうな。
仕事帰りに忘れずにガムテープ買ってください(宅配搬入)