No.35, No.34, No.33, No.32, No.31, No.30, No.29[7件]
一次創作
創作:郵便屋さんの話。
世界が三回終わった北暦(ほくれき)で教員を頑張ろうとして郵便屋さんに拾われる話。#郵便屋さんの話

すでに三回終わりきった四回目の暦だとして、己自身の終わりを明確に意識できる機会に見舞われるのは、それでもきっと珍しい。
無意識で飲み込んだ生唾が動かした喉仏だけが突きつけられた切っ先の下で唯一、呑気だ。そのまま息をするのも許されそうになくて、思考回路は迷走を極めていく。
打開のために喉を震わせたのは、しかして情けないほど引きつった声だった。
「く、鵠止(くぐどめ)一人(いちひと)二十七歳中央研究室付属第三校考古学専攻学科准教授好きなものは『薄荷区(はっかく)』のみつ豆で趣味は裁縫嫌いな食べ物は蜂の巣です!!」
後半、自棄である。
徐々に勢いづいて大きくなる声量は多少周囲の木々を揺らしはしたが、目の前にある凛、と音でも鳴りそうな人影には一片も響かない。
一見すると真っ黒な、深い緑を煮詰めたような少し青みの色彩で統一された、西暦のころの学生服と軍服を合わせたような詰襟。
暗がりによくとけ込みそうな外套の中、すらりと伸びる四肢の中心、陣取るように華奢とも言える細面。行儀よく頭を包む制帽は深く被っているわけでもないのに、ずいぶんと目元に落ちる影が濃い。
「怪しいものではないんです、ほんとうです、ほんとうなんです所属は中央に問い合わせてくださいしがない実地検分途中の准教授なんですほんとうです……」
「常套句とは、わかっていらっしゃるようですね」
呆れたような声色で、ようやく刃は喉から引かれてあるべきところに収まった。
「少なくともこちらが定めた入り口以外から敷地内に入る時点で、だいぶ怪しい自覚はおありで?」
「うう、すいませんどうも道に迷ったようで」
この瞬間、さきほどの自暴自棄な名乗りと自己紹介の後ろに方向音痴も付け加えられたに違いない。
確かにどうみてもここは建物の裏手側の類、少なくとも来訪者に開かれた雰囲気ではないし、周囲は控えめに見ても森だった。
踵を返した制服姿の向かう先、重厚な煉瓦作りの赤茶色い建物は、いくつかの丸屋根を戴いて避雷針がわりの風見鶏をぬるい八月の空気に回転させていた。
そのくせ、空はどんよりと灰色である。
「あの、あ、あの……ええと」
「どうぞこちらに。出自がどうあれあなたもここにいるということは、そういうことです」
「はい、ええと、はあ……」
説明しないわけではないが、言葉を増やすつもりもないらしい。
自己申告はすべて事実で、なにをどうしてこんなところに出たのかわからないのであればもはや翻るその後ろ姿を追う以外にはないのだ。
山道を歩く予定なのだから慣れた靴を、と選んだ半長靴がためらうほど磨かれた廊下を少し歩いて通された一室で外套と鞄を所定の位置であるらしい壁に掛け、ようやく敵意のなさそうな手が差し出された。
「どうぞ、おかけください。いま担当を呼びます」
白手袋の示す先、一人用の革張りの椅子。二つ並べられた左右のどちらか選びかねて、いっそ対面の二人掛けを占有してしまおうかとも思う。
三つある選択肢のどれを選んでも居たたまれない気持ちに差異がないならと腹を括って、利き手の方に荷物を置いた。
そんな葛藤を知ってか知らずか、内線らしき黒電話に置かれた受話器がちりんと一つ無自覚な金属音を立てた。
慣れている、のだろうか。何を言っても言い訳にしかならないような不法侵入以外の言葉を欲しいくらいの状況と、その対処に。
いつの間にやら出されていた、美しい緑茶で満たされた湯のみで右手を暖めながら、曇る眼鏡に少しだけいつもの悪態をよぎらせる。
「さて、担当が来るまでに少しお話を伺いたいのですが」
「うぇおっ、う、はいっ、どう、ず」
「道に迷ったと言われましたね、実地検分とも。麓のあたりにお宿が?」
問われて初めて、絶句した。
「……ええ、と」
空が、どんよりと灰色である。
「わか、り、ません」
まるでそこだけ、丸ごと抜き出されたようだ。
例えば続き物の小説の中巻、調べたかった百科事典の"か"行第七巻、箱の形で思い浮かぶのはきっと普段から書物に囲まれているからだろう。
素直な自己申告は、すべて事実だ。
「なるほど、よくわかりました」
そんな答えでも、及第点以上ではあったらしい。
「先にご説明しておきますと、先ほど呼んだ担当者は遺失物係の者です」
「遺失物、ですか」
「付け加えて、ここはそうった"失くしもの"を探す方の照会先としても機能しています」
無くす、亡くす、失くす、ありとあらゆる、なくなってしまったもの、者、物。
「ぼ、くの場合は、それが、出自ということですか」
声が掠れる。いつものことだ、緊張したり戸惑ったり、臆病で過敏な精神にこんなところだけが従順だ。
「いいえ、出自は先ほどご自分で述べられた通りです。厳密に言うのであれば、直近の記憶と言うところでしょう」
「い、いま、今日は何月の、いつですか」
「八月の十七の日、夏時間ですので中間を過ぎて七時と十二秒ですね」
最後に暦の一覧を見たのはいつだったか。
もともと研究職ゆえか世間一般の動きとは盛大にずれのある、よく言えば縛られない生活をしていた。縛られるとすれば唯一、論文やら試験問題やらの締切日だけだ。
試験問題の。
「し、試験、だったはずなんです。夏期休暇前の、二期の、進級試験で、一学級全体で取り組む実地を含んだ、もののはずで」
確信が、確信だけがない。感覚はそう示す己の過去に、普段であれば何も言わずに付属するその確信だけが、今はない。
失くしたものは、その確信ではないのか。
「試験、問題の……流出があって、それで、急に、準備のできないようなもので、することになって」
「その先は、担当者が詳しく伺います。ところで」
混乱を落ち着かせようとする意味か、明らかに意図して言葉を切った。
「あなた、どうも左手も失くされてるようですが、お気づきですか」
「え、」
確信と、左の手。
見やる先には空っぽの袖。右手だけを暖める、湯のみ茶碗。
確信と、左の手。
木々が揺れる。座っているのに足下が揺らぐ。風もないのに風見鶏は回る。

空は、どんよりと灰色。畳む
つらつら
日記:リンク追加したりなんだり
ABOUTに好きサイトさんのリンクや、ページ下部にあるんですがてがろぐ、スキン配布サイトさんのリンクを追加しました。やったね!

最近はTwitterがどうにもこうにも胡散臭いというか「ああ……俺の手を離れたな……」というか、そもそも手中にはあるものではなかったんですがそれを差し置いてもさらに遠くに行ってしまったな、というのが体幹として強くあります。
そもそもツイートがフォロー中とおすすめに別れたあたりから雲行きが怪しくなり、ツイートが間引かれてくるようになったあたりからだいぶ不信感があり、いよいよRT表示の仕様が変わったりおすすめタブに非公開アカウントのツイートが紛れてくるとかいう地獄の様相を呈してきたあたりからだいぶ心が離れておりますね。

あと利用規約の変更で投稿された全てのメディア(文章を含む)が親会社のAI学習に問答無用で使われるあたりもうだめだな………という感じです。利用規約、すべての文章がわかりにくくて読みづらいので「俺」「お前」「あいつ」とかのフランクな文章に翻訳してくれんか………になっている脳の状態で読んだからだめなのかもしれない。二度と読める気がしない。冒頭の「やったね!」からの落差がすごいな。
つらつら
日記:もさもさ追加した
いままでの擬人化創作とか二次創作とかを小説、文章メインでいろいろ追加しました。カテゴリ作ってあるのに0なの悲しいので…………。悲しいついでに一連の擬人化シリーズ名がタグにすると感嘆符がハッシュタグにならなくてしょんぼりしているのもあります俺はいつもこうだ。

ピクシブにもいくつか擬人化小説を上げているので、そっちも引っ張ってこような。短歌もノートにばらばらに詠んでいるせいで急にジャンルの一首だけ紛れていたりして「どうして」って言ってる。過去の俺、どうして。現時点の俺がとまどっています、そういうのやめてください。と言ってもその時々で整理するときの基準が違うのでたぶんいまの俺も将来的な俺に「どうして」って言われるんだろうな。
仕事帰りに忘れずにガムテープ買ってください(宅配搬入)
つらつら
映画感想:「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を観たよ!の話。ネタバレ。(初出:2023-03-08 15:52:41/くるっぷ)
#映画感想

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」、全宇宙規模のでっかい家族愛の話で良かったな……その軸がぶれないので安心して観られた。
あくまで終盤の他人の願望救済もジョイの手を掴むために、そして離すために道を開ける必要があったからで、エヴリンにその救い自体を望んでない(あくまで副産物的に生じていた。結果としてジョイなるに追いつくと言う望みは叶う)っていうのがわかるのもとても良い。
ジョイの思春期の話であり、自分の性自認についての葛藤であり、母にそれを認められたいという家族属性の中で生き残るのに必要な要素を満たされないままの人間の姿であり、それはエヴリン自身の過去でもあり……得られなかったものをどうやって手放してあるいは手放さなくても隣においておけるか、と言う話だった。

自分が親にされて傷ついたことを、親として自分の子供にしたくない、っていうの、父親への反抗とエヴリン自身への自己救済(自分が自分を救うんじゃい)というエゴのかたまりの一片でよかったですね。エヴリンが最初自覚的でなくて、でも最後に一回ジョイの手を離してベーグルへ進ませること、それはジョイ(ジョブ・トゥパキ)の消失を願う直前の父親とは全然違う理由からなのもあの怒涛の映像の中であれだけわかりやすく描いたのすごいなあ。
結局、自分がされたかったことを他人にするという行為は遡ってしまえばエゴでしかないんだけど、そのときどきにおいて確かに他人への救済にもなりうるんだよ、って言葉で語るとごちゃごちゃとした注釈で本題が隠れるほど必要になりそうなところをあのライティングも衣装も重力もめちゃくちゃな画面の中ですっと出されるのすごい。

じわじわと咀嚼して思うところとして、途中、ソーセージハンドバースのエヴリンと税理士さんがパートナーになってところにいま(暫定的に”いま”とします。一番最低の「なんでもできる」エヴリンのこと)のエヴリンがジャンプしちゃって大騒ぎするところあるじゃないですか。
あれって、本編が「家族愛」(家族とは言え個人個人、別個体、あなたとわたしはちがう、個人間のでっけぇ愛の最小構成単位になりうる立ち位置、理解しなくていいから隣にいたい、いていいよって言って、)の話である以上、なんとなくだけど今後、家族を構成しているエヴリンやその家族たちにふりかかるであろう認知症のことも示唆しているのかなあ、とか思ったりもする。
急に人が変わったようになってしまっていままでの関係が難しくなる、ってそれだけ書くと「あ〜………」という理解というか結論が見えてもおかしくないなあ、と。まあこれは俺の母方の祖母が認知症になってしまっている昨今の現状が強く閃きに影響しているのかもしれないけど。ただね、忘れていくだけじゃないよ、っていう、寄り添いのそういう、やっぱあそこも家族愛のことだよなあ。人間と人間の最小構成単位を「家族」とした場合の。

家族愛の話でありながらも、家族愛がすべて!!!ほら!ってやってないところ。あくまで人間と人間の間に交わされる愛情っていうものの一つのかたちとしての家族という単位、共生構造であるだけでそれがすべてではないしそれが至上でもない、っていうのは散々描いてくれているので心がざわめかなくてよかったです。
参道家はめちゃくちゃにまともな家なので両親から幼少時より「家族といえど他人であり、他人である以上はお互いに敬意を持って過ごす必要があり、あなたが成人するまであなたは自分のことに責任を取ることが法律上できないので、その責任を追うために我々(両親)がいます」という説明をたびたび受けてきたのでフィクション作品の「家族」像を見ると「大変だな……」ってなることの方が多いんですが(ていうか九割そう。そうならないの、主人公たちが成人済みでこざっぱりした家族関係が描かれてるときだけ)「エブエブ」はそのへんもうまく見せながら最終的にあの家族は家族という単位にまとまりましたよ、でも全宇宙のほかのバースは知らんけどね、をやったのすごいよかった。
よかったしか言ってないけどよかったんですよ………とても……………!!!!!!!

思い出したらまた書くかも。

畳む
つらつら
日記:先頭固定のこと解決した
しました(結論)
てがろぐは設定をどうにか変更するものと、スキン側のCSSなどを触るものが混同していて「どっちだ…!」になりがちですが八割はてがろぐ側の設定などであるという知見があります。それしかないとも言う。

今日はCOMITIA144の荷造りをして宅配搬入の準備をして…と思っているんですが喉が痛くてアイスばっかり食べていたり荷造りが全然進んでいなかったりでいまです。あとガムテープが見当たらなくて部屋の真ん中で「おおっとそうきたか」と誰かに向けて喋っています。
そういえば最初の方の日記で『仮想敵を作るな』というモットーについていつか書くかもしれないと言いつつ書いていないですね。はい。いつか書くことが本当になくなったら書きます。
一次創作,短歌
短歌:一次創作、あるいはなんでもないもの
詠みためたもの、うたよみんやTwitterやmisskeyに投稿したもの。気が向いたらまたまとめて別に投稿する予定です。

日本語の一番最初はあいから始まる 猫の瞬く最微速見る(最微速についてはこちら
人生はいつなんどきも今までを切り売りしていく商売であり
「髪の毛は長いと意外に便利だよ」笑った君と髪が燃えてる
わりと今にやけているにはそれなりの理由があるが君のことでは
この海か空にひとすじ凛とした傷をつけたら散ってもいいかな
刑場に行けば我らの栄光の証があると君が言うから(付記:革命)
海を知るこのあしもとは永遠にあの砂浜を踏むことはない
言い訳と詭弁と理由と弁明と君の傷とのあわいはどこだよ
君を詠むための言葉が足りないのとらえどころがないからでなく
恋とかいう心の臓に溢れてる口に出せない血潮の色して、
天国も地獄も君の主観であって、君の奈落に僕はいなくて
その愛をただ一色で映すには、もったいなくて黒点を指す
個々人の名前はいずれ数になり乗員乗客総数となる
星光る声が呼ばない夜を知る 三角定規で平行線引く
いつかまた海に焦がれる時が来る 今はそれまですくすく往けよ
僕の中の怪物が君を食べようとして火を吐いた夜だよ
物言わぬ潮風に旗靡かせて さんざめいている 君が手を振る
海なんかもう何年も来ていないみんなそこから産まれてきたのに畳む
擬人化,一次創作
擬人化:エイジャックスさんが陸さんをさらいに来る話。
ふたりの距離が近いです。好きの種類が違います。#GAS
もう攫っちまえば良いじゃねえか、と、あまりに急な速度で正答が得られたものだから、驚いてしまうのが何より先で、気が付いたら市ヶ谷に居た。
(……?)
己でもよくわからない。
余生というにはあまりに無為な展示での保存をされていた。毎日天を廻る太陽と月とそれから曇りと雨と星と風と、ともかく自然をその身で感じている以外になかった余生に、突然後輩がど真ん中の正論を突きつけてきたので気がつけばここに居たのだ。
本体は置いてきた、のを感じる。そもそも退役して久しい上に、もともと所属に関しては何やら組織間でしっちゃかめっちゃかしたらしい余韻は端々から感じていたし、攫ってしまおうと思うに至った経緯もそこにほのかに起因しているし、何より年月が経ってもうあのこは「あのこ」なんて呼べるほど小さくもないのだろう。
(いちがや……)
後輩がいるはずだ。ここは陸海空の全てが揃うから、隊でも呼び方が様々でなんだかややこしいのだなぁと人間を見ていた気がする。
もう、あの土地で長らくを過ごしすぎて、離れすぎて、記憶も曖昧だ。
(……あいまい、なのに、)
曖昧なのに、攫おうとは思う。想う。
もう姿形も規模だって大きく違うあのこを、攫おうと思ってここに来る。
一個体のありもしない心など、いずれ薄れて消えていくと思っていたのに、今でもこんなに未練がましくしがみついているのかと、日本という国に供された己のことを振り返る。
(見つかる前に、)
配備されている後輩に見つかる前に捜しださねば。
決して後ろめたいわけではなく、ただただ愛について独特の感覚を持つ後輩に悟られて捕まって根掘り葉掘り聞かれると時間ばかりがすぎて目的達成が遅れるからだ。
(どこ、に)
居るのだろう。
陳腐に言えば絆、のようなもので確かにその存在は、少なくとも気配だけはここに感じている。さわさわと頬(と認識している場所)を撫でる何がしかの、形容しがたいざわめき。
ぽつんと、気がついたら立っていた場所で辺りを見回しても程よく視界を遮りそれでいて邪魔にはならない木立と、直線をふんだんに利用した建物と、ガラスの鈍い反射と、空。
勝手知らない立場には限りなく不親切だが、そもそも招かれてはいないのだからその不便も甘んじて受けよう。
(…………りく、)
ぼんやりと立っているだけに見えて感覚は周囲にできるだけ展開し、僅かな振動も逃すまいと感知しては選別を続ける。
気配、足捌き、衣擦れ、呼吸、あのこの、全部。
「んっ……?!え、い、じゃっくす?」
(……!)
ぴこ、と視野を遮らない前髪が反応した。
アンテナかレーダーだかの具現なのか、己の反応を如実に表すこの前髪も今はなかなか役に立つ。
「お、お前……なんで、いや、そもそもエイジャックスか?」
(です)
ゆっくりと瞬きをしてふんわりと肯定する。
その反応はこのこと一緒にいた時に散々やったいつもの肯定の動作だから、もうそれだけでほかの要素は要らないくらいだ。
「あ……、うん。いやそれでもだな、あれか、お盆にはまだ早いぞ……?」
(Festival Of The Dead.....”O-bon”...)
「なんか違うがちょっと正しい……死んでないしな……」
​以前からそうだっただろうか、少し色味の変わったような緑色に身を包み、すらりと伸びた体躯があまりに眩しい。
メンダコみたいだ、と言われた瞳孔がなおさら細くなって、眉間にしわがよる。
(まぶしい)
「そうか?今日はそんなに日差しも強くないが……」
律儀に天を仰いで太陽の位置を探すあたり、あんなに小さかったころと何も変わっていなくて、魂が安堵した。どこにもないはずの、魂。
「ところで、本当にどうしたんだ、エイジャックス。向こうで何かあったのか?」
(ん)
ゆったりと頷く。
出会いがしらの驚きを越えて、納得はさておき本題に切り込める余裕ができた。
(攫いに、来た)
「……さら、いに」
(うん)
「……浚う方、ではなく」
(うん)
「さんずいではなく……いや、そもそも俺はいま英語で話してるか?」
(半々)
「半々か……」
どうにも意思の疎通が音声に頼らないので、相手も相手で言語の間を行ったり来たりしてしまう、らしい。
母国から無償提供されたところが発端だから、己も己で二つの言語をあちらこちら、言葉の選びに迷ってしまう。
「具体的に、どう攫うんだ」
(……ん、と)
こう、と言うが早いか柔らかく手首を掴む。
昔は二本まとめて片手に収まりそうだったのに、今では親指と中指が一周して触れるかも怪しいほどに逞しく、筋張っている。
(………)
「うん、それで」
(……あの辺の、芝生で、座る)
「うん?……うん、まあ、いいが」
こっち、とふんわり踵を返して手を引くというにはあまりに力の入らない手首の保持を続けながら、そよそよと風の吹くコンクリートを歩く。
さすがに土足で(しかも己は踵が高い靴だ)柔らかい芝生を踏むのは遠慮したいから、空いた手で縁石を指してここ、と視線を投げかける。
(だめ?)
「駄目じゃあないが……俺がいるから、外も行けるぞ」
(そと)
外。
元来、陸自とそれに類するいわゆる陸軍は、その場その場に長く居ることを前提に行動する。
ゆえに「駐屯地」と呼び習わすのだけれど、だからこそ、その場から外に出ることにはあまり意識が向かない。その領域に、揃っているから。
このこはどこにも、いないのだけれど。
(………さんぽ)
「うん。そうするか」
(いいの)
「ああ、この後はそこまで予定もない。なに、空が基地から戻る前に帰れば見つかることもないだろ」
空、と呼ぶ、ひとのかたちの組織。
己と後輩の所属を争ったらしい、二つの組織。
「時間を考えると…この辺一周くらいか。なんなら市ヶ谷ツアーでもするか?」
(……君が居たらいい)
ふるふると、首を振る。その瞼の裏で、仮にも誘拐犯に今後の行動を提案するひとがどこにいますか、と海担当の彼がものすごい剣幕で迫ってくるのが目に浮かぶ。
多分、同じ予想がこのこの中にも浮かんではもうすでに消えて、それを踏まえた上での提案なのだとよくわかる。
「なんだって攫いにきたんだ」
(………)
そ、れはね、とありもしない心に反して意志が表に出そうになる。
君とどうしたって離れたくはなかったのに、今はもうどうしたって離れているしかないから、どうしたらいいかと思っていて、それは日々の中に細かな砂塵が溢れるように薄れて薄れていくものだと、思っていたのに。
「何でもいいがな。さて、ペトリやら海やら、見つかるとうるさいのに見つかる前に行こう」
(………うん)
ぺとり、と呼んだ。
後輩の名前だ。後輩を通してすら、こんなにも遠い。
(会いたいだけじゃ、だめですか)
つかんだ手首に目を落とす。
人の集合体たる組織の具現は規則正しく脈を打つ。
会えて嬉しい、元気そうで、楽しそうだ、瞳が濁ってなくて、声に芯があって、体幹はすらりと伸びて、まっすぐに、愛おしい。
この「好き」という形容ひとつに落とせる余波が、どの属性かは決めかねていて、おそらく全部が含まれていて、だから伝えずにいようと思って。
「エイジャックス」
名前を、呼んで欲しかった。
攫おうとなんて、しなくてよかった。
(なまえ、)
「うん?」
を、
「エイジャックス?」
飽きるほど呼んで。飽きたりはしないで。
ずっと呼んでいて。焼き付けてしまって。

きみがおれのなまえをよぶのがすきだった。畳む

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